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【アップル構想】

★ブライアン・エプスタイン存命中から、自らの音楽活動をビジネスとして自らの手で管理運営していく組織として、アップル・コー設立の構想を持っていた。

★1967年9月、アップル事業のための事務所がロンドンのベーカー・ストリートに確保された。

★当初はドノバンやローリング・ストーンズなどと一緒に会社を作るアイデアもあったそうである。

★1968年2月にNME誌に風変わりな全面広告が掲載される。

★1968年5月11日から4日間の日程で、アップルの説明のためにジョンとポールがニューヨークへ飛ぶ。12日はアップルの責任者であるロン・キャスとミーティング。13日にはニューヨークのセント・レジス・ホテルでニューヨーク・タイムズのインタビューを受ける。14日はアメリカーナ・ホテルで記者会見。

★ジョン、、、「アップルはレコード、映画、電子機器に関する事業で、副業で製造だか何だかというものだ。映画を作りたい人が、誰かのオフィスでひざまずいて懇願しなくてもよいシステムを作りたい。」

★ジョン、、、「この会社の目的は、銀行を金歯で満たすようなことじゃない。ビジネスの仕組みの中でアーティスティックな自由が得られるのか、素晴らしいものを作って、原価の3倍の値段をつけずに売ることが出来るのか。そういうことを試してみるゲームみたいなものさ。」

★ポール、、、「自分の作品をアップルに送ってくれれば、それでいい。それをボクらは聴くし返事もする。」

★ポール、、、「ボクらは本当に誰かを助けたいと思っているけど、それはボランティアのようなものじゃない。ボクらは嬉しいことにこれ以上のお金を必要としない立場にいる。だから初めて利益を目標としない上司が誕生したってことさ。「ボクはこんな夢を見ました」と言うと、「ここにはたくさんのお金があります、やれば。」と言う。ボクらはすでにすべての夢を買ったから、今度は他の誰かとその可能性を共有したい。」

★ポール、、、「ビートルズには、もう十分に金はある。才能ある若いアーティストにチャンスを与えたい。」

★同日、テレビ番組「ザ・トゥナイト・ショー」に出演。ジョンは司会者のジョニー・カーソンに会うのを楽しみにしていたのだが、なんと当日は休暇を取っており代役として野球選手のジョー・ガラジオラの司会だった。ジョン、、、「野球選手が司会だなんて知らされていなかった。「誰がリンゴ?」とかくだらないことを聞いてきやがって。ジョニー・カーソンと話をしたかったのに知らないサッカー選手みたいなのがいやがった。女優のタルーラ・バンクヘッドが興奮しまくって「ステキね」とかやたらにおだてまくって、あんなにヘコむ番組出演は初めてだ。」

【後年の回想】

★ジョン、、、「ポールとオレはアップルに同じものを望んでいた。だが、それをどうやって成し遂げるか、、、そこに二人の違いがあった。」

★ポール、、、「盛大なアップルのスタートを望んでいたけど、変な予感と胸騒ぎがして神経質になっていたんだ。どういうわけか強い不安を感じていた。分不相応なことをしているんじゃないかって。記者たちは財界の有力者かのようにボクらを扱っていたけど、実際のボクらは業務計画も立てず、ラリってただ面白がっていただけなんだ。」

★ジョージ、、、「ボクはほとんど関わってはいないよ。他人とパートナーシップなんて持つもんじゃないよ。これはすべての人への教訓だ。その後、一人では何もできなくなってしまうんだ。」

★ジョージ、、、「アップルなんてひどいアイデアだったけど、ヒッピーの時代だったからね。やればできるさって思っていたんだろうね。」

【アップル・パブリッシング】

★1967年9月27日、様々な経営企画が立案されたなかで、楽曲版権管理、楽譜出版部門として「アップル・パブリッシング」がロンドンのベーカー・ストリートの事務所にて本格始動。

★ビートルズはEMI傘下のパーロフォン所属アーティスト、レノン・マッカートニー名義の楽曲の登録と出版はディック・ジェイムス、あるいはブライアン・エプスタインを介して設立されたノーザン・ソングスと出版契約があったため、自身以外の若手ソングライターの音楽創作活動の活性化及び開拓と版権獲得を目的に設立された。

★契約第1号のアーティストは「グレープフルーツ」。1967年12月11日に契約した。

 

【アップル・レコード】

★A&R(アーティストとの契約、楽曲の製作、育成など)の責任者には、ジェーンの兄でピーター&ゴードンのピーター・アッシャーが担当者になった。

★アップル・レコードの構想に関わるアイデアは、大体ポールのものだったとピーターは述懐している。

★1968年4月20日、アップル・レコードはデモ・テープ募集の広告を出す。

★1968年8月11日、正式にアップル・レコードが発足する。

★レコード・レーベルはポール所有のルネ・マグリットの青りんごの絵が使われている。

★実際に送られてきたテープ類は山のように驚くほどの量であった。ピーター以下のスタッフは可能な限りそれを聴き、ビートルズのメンバーも時間の許す限り多くのテープを聴いたそうである。

★ポールとピーターがアップル・レコードの活動骨子として、才能があっても企業側の都合や考え方の相違などによって埋もれてしまわざるを得ない人たちにチャンスを与えること、アップルが見つけてプロモートすることであった。

★ジョン、、、「ジョージが「芝生に入らないでくださいって言われるのにはうんざりだ」と言っていた。そう、オレたちは誰もがいつでも出入り出来て、好きなことが出来る公園を作りたかったんだ。」

★ポール、、、「すごくステキな小さなレコード会社だった。最初、ボクらの思うようにいってた頃はね。そのうち、レコード会社なんて本当に必要なのか?って思うようになった。」

★リンゴ、、、「面白かったな。メリー・ホプキン、ジャッキー・ロマックス、ビリー・プレストン、バッドフィンガー、、、ボクはジョン・タブナーを紹介した。」

★リンゴ、、、「アップルはレコード会社と出版社の両方を併せ持っていた。考え方として、アーティストたちがボクらに会いに来て、アイデアや計画を話し、ボクらのうちの一人でもOKと言ったら資金を提供して、彼らがそれを実行するというものだった。頭を下げる必要はありませんって大々的に言っておくんだったな。60年代の初めの頃ボクらはいつも頭を下げていたからね。」

★1971年9月30日、アップル本社に50万ポンドを掛けたレコーディング・スタジオが完成した。オープニング・パーティが開かれたが、出席した元ビートルはジョージひとりだった。

★ジョージ、、、「アップルが今ようやく、3年前にボクら4人みんなで計画したかたちになったんだ。ちょっと悲しいね。ポールもスタジオを使いたかったら使って欲しいと思う。使わないのはもったいない。ボクら4人がまた一緒にやるときが来るとは思えない。だけど友達でいたいと思うよ。これはボクら全員でやっている仕事で、順調に進んでいる。4人みんなで今それを味わいたいと思う。」

★アップルの新人デュオ、ロン・アンド・デレク・バン・イートンのレコーディングが最初のスタジオ使用になった。ちなみにリンゴがドラムで参加している。またジョージもバッドフィンガーとファニーのプロデュースで使用している。

★パンフレットによればスタジオ使用料として、16トラックのスタジオは1時間37ポンド(当時のレートで約31,000円)、8トラックのスタジオは1時間31ポンド(同、26,000円)だった。

★ロンドンのサビル・ロウ3番地にあるアップル・ビルの地下にあった「アップル・スタジオ」は1975年5月2日に正式に閉鎖された。

【アップル・ブティック】

★1967年12月5日にオープニング・パーティが開かれた。ジュースで乾杯したことから「アップル・ジュース・パーティ」と呼ばれた。招かれたゲストはエリック・クラプトン、キース・ムーン、シラ・ブラック、リチャード・レスター等。

★正式なオープンは1967年12月7日。場所はロンドン、ベイカー・ストリート94番地。

★ブティックが入ったビルは19世紀に建築された4階建て。壁面に大きく奇抜なデザインの壁画がザ・フールによって描かれたが、周辺の市民の大ひんしゅくの後に、壁面が真っ白で、入り口上部に「apple」と書かれたシンプルなものに変更された。

★商品のラインナップは、オランダ人のデザイナー・グループの「ザ・フール」がデザインを手がけた衣類・小物・宝飾品・家具など多岐にわたった。ビートルズは開業資金としてザ・フールに10万ポンド(当時のレートで約8640万円)を提供した。

★スタッフには店舗マネージャーにジョンの幼少期からの友人ピート・ショットン、経営アシスタントにパティの妹のジェニー・ボイド等がいた。

★閉店はわずか8か月後の1968年7月30日。万引き、店員による商品の持ち出し、酔っぱらって寝そべる店員や客、大量生産品を販売するようになったことで希薄になった独創性等で売り上げが低迷したことが原因。

★閉店時には「一人一点」の条件付きで、一般市民に店内商品を無料提供された。閉店告知の前日にはビートルズのメンバーを含む関係者が、ブティックの商品になかから気に入った品物を持ち出してしまった。

★無料提供に市民が群がり、店内はもとより周辺は大混乱。泣き崩れる店舗マネージャーのピート・ショットンの姿が映像で残されている。

【アラン・クライン】

★1931年12月18日生まれ

★1965年にローリング・ストーンズの共同マネジャーに就任するが、経営学に明るいミックに嫌われ解雇されている。

★「私は泥棒みたいに頭が働く。(1972年2月19日)」

★アリステア・テイラー、、、「経営を引き継いだのは冷酷なアラン・クラインだった。彼と言葉を交わしたのは一回だけ。彼は「オーッ」と呻いただけ。エプスタインの跡継ぎにふさわしいとは、どうしても思えなかった。」

★1973年3月いっぱいをもって、ジョン、ジョージ、リンゴとのマネージメント契約が切れ、ビートルズ側の3人は契約更新せず、何かとゴタゴタしたアラン・クラインとビートルズとの関係は終わった。正式に解雇したのは同年11月。

★ジョン、ジョージ、リンゴとマネージメント契約の切れたアラン・クラインが、3人に対して総額200万ポンド(当時のレートで約13億2千万円)の請求をした。アラン・クライン、、、「私がアップルを預かった時の資産は90万ポンドしかなかったが、それが今では5,000万ポンドだ。3人はそれだけ私に借りがある。もし払ってもらえないというならば、とことん戦うしかない。」

【アップル訴訟】

★ マックやiPhoneでおなじみの米国アップル社との間に名称やロゴの使用権、商標権などをめぐって争われていた裁判だが、1991年に米国アップル社が「Apple」の商標を音楽分野に使用しないことを条件にいったん和解が成立していたが、iTunesなどによる音楽配信事業への参入により和解協定違反として再度訴訟問題となった。2007年2月5日に「Apple」の名称、林檎のロゴをを引き続きビートルズ側が使用、商標権は米アップル社が所有することをビートルズ側が認めて再び和解となった。

米アップル社最高経営責任者(当時)スティーヴ・ジョブスのコメント「ビートルズを愛しているので、商標などをめぐって争うのは苦痛だった」

リンゴ・スターのコメント「このトラブルをようやく過去のものにできたことをうれしく思っている。そしてボクのためのiPhoneも郵送されたことだろうね」

 

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