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【ジョン・レノン】

★9~14歳までの間、夏休みをスコットランドのハイランド州サザーランド郡ダーネスで過ごした。ジョンのいとこスタンリー・パークス「ジョンと過ごした田舎家は、私の義父ロバート・サザーランドのものだった。ジョンはそこの解放的な自然が大好きだった。ジョンと私は釣りとかを一緒にやった。ジョンは山を登って絵を描いたり詩を書いたりするのが好きだったよ。ジョンは鮭を釣るのが好きでね、よくスコットランドになじんでいたよ。ジョンからもらった最後の手紙で、彼はスコットランドでよく言われる言葉を使っていた。ジョンはこの土地でも思い出を一生忘れなかったんだ」。ジョンは1969年に交通事故を起こしているが、それはヨーコとジュリアン、ヨーコの娘キョーコと再び同地を訪れたときの出来事。このときの事故を起こした車をアスコットにある自宅へ輸送して、庭に飾ったという。

★ジョンが最初に覚えたロックン・ロールは「Ain't That A shame」である。母親のジュリアからバンジョーで教わったという。

★ポールがジョンと出会った頃、ポールによるとジョンはバンジョーのコードでギターを弾いていた。

【ナイジェル・ウオーリーの回想】(ジョンの少年時代の友人で、クオリーメンでベース、マネージャーをしていたこともある)

★ナイジェルはジョンの母親ジュリアの交通事故死を目撃している。「ボクはその夜ジョンの家に行ったんだけど、ジョンは留守だとミミ伯母さんに言われた。ミミ伯母さんはジュリアと門のところに立っていた。ジュリアは帰るところだった。僕たちは立ち話をして、その後ジュリアをバス停まで送ることになった。ボクとジュリアはメンローヴ・アヴェニューまで歩き、角を曲がって僕が住んでいたペイル・ロードという通りに入った。車がスリップする音を聞いたのは10メートルちょっと歩いたときだった。ボクは駆けつけたが、ジュリアは即死していた。ボクはその事故を何度も悪夢で見た。今でも目に浮かぶ。倒れたジュリアの髪がはためいている様子。その後ジョンにあまり会わなかった。なぜなら彼が隠遁者のようになってしまっていたからだ。そのことをボクは非常に気に病んだ。ジョンが「ナイジェルが母とあと1分長く一緒に話してさえいれば」とボクのせいにしていないかと思ってしまってね。」

★「ボクたちは4歳のときからつるんでいた。モスピッツ小学校に入学したけどジョンは5歳か6歳のときに秩序を乱したということで退学させられた。ボクの記憶ではポーリー・ヒップショーという女の子を埋めたんじゃないかな。彼はその後、ダブデイル小学校、クオリーバンク中学校へと進み、、ボクはブルーコートへ行った。しかし互いに近くに住んでいたのでずっと友達だったよ。ピート・ショットンがいちばん親しく、その次がボクだと思う。」

★クオリーメン時代のジョンについて「ジョンはコートの内ポケットにいつもハーモニカを入れていて、母親からギターの弾き方を教わっていた。でも彼が有名になるとは夢にも思わなかった。クオリーメンはマージーサイドで100あるスキッフル・グループのひとつだった。ボクらはたくさんのコンテストに参加したけど一度も優勝しなかった。しかし状況は発展した。ジョンとポールがビートルズを結成し、ブライアン・エプスタインは彼らの中に光るものを見出し、それを彼は取り出した。彼は正しかった。」

★「ポールとボクはあまり折り合いがよくなかった。当時ボクはマネージャーで、バンド・メンバーと同額を受け取っていた。でもポールはそれが不満でボクの取り分は10パーセントでいいといった。しかしジョンはボクの味方をして「ポール、こう考えるべきだ。もしナイジェルがいなかったら、俺達はいまの仕事の半分ももらえていなかったかもしれないんだぜ」と言ったんだ。」

【メンディップス】

★イギリスでは家に愛称をつける習慣があり、ジョンが子供時代を過ごしたミミ伯母さんの家にはメンディップスという愛称があり、湖水地方(イングランド北西部)にある地名から取ったものである。

★ジョンが少年時代を過ごした思い入れのある家のことを、よくヨーコに話していたという。そんなメンディップスが営利目的(ジョンゆかりを前面に押し出したホテル建設)のために取得しようとしていることをヨーコが知り、内密にかつ相当な苦労の末に取得した。

★シューベルトやベートーベンの成果を訪れて、彼らが実際に歩いた床を自身が歩いたときに、ものすごく興奮して感激した経験があり、世界中のジョンのビートルズのファンに同じ経験をしてもらいたいと、ナショナル・トラストに寄付をしてその管理責任の下で一般公開されている。

★ジョンはこの家に5歳から23歳になるまで過ごしている。ナショナル・トラストはインテリアなどもジョンが過ごしていた時となるべく同じものを揃えた。

★お気に入りのラジオ局は「ラジオ・ルクセンブルグ」でBBCはほとんど聞かなかったそうであるが、コメディ番組「Jack Johnson Show」だけは別で、アメリカの最新ヒット曲がよく流れて気に入っていた。

【初めて買ったレコード】

★ジョン、、、「昼休みに友達数人が誰かの家に集まるんだ。女抜きで男ばかりが。ジーン・ビンセント、チャック・ベリー、リトル・リチャード、バディ・ホリーなんかを聴いたけど、やっぱりエルヴィスが最高だった。ある晩Heartbrake Hotelを聴いた。そして次の日レコード屋に飛んで行って、シングル盤を買った。でもオレはレコード・プレーヤーを持っていなかったから、いつもレコード盤を持ち歩いては、誰かにかけてもらっていた。」

★ジョンはレコード収集が仲間たちよりも遅れてスタートしたために、新譜はもちろん中古店などに出向いてお金があればレコードを次々と購入していたという。

★ジョンが名曲「Rock Around The Clock」を手に入れたのは発売からかなりの時間が経っていた頃だった。ジョン、、、「何でもっと早くに買わなかったのかと思うよ。1955年の頭に発売された瞬間から好きだったのに。今振り返るとHeartbrake HotelやBe-Bop-A-Lulaと同じくらい大きな感動をこの曲から受けたと言えるね。」

【ポール・マッカートニー】

★父親のジム・マッカートニーはかつてジャズ・バンドのメンバーで、リヴァプール界隈のダンス・ホールなどで演奏していた。

★ポールは、父親がポピュラー・ソングやジャズ風に演奏されたスタンダード・ナンバーが好みで、そういった曲のレコードを家においていたが、少年時代のポールはそれらの曲を自分でもよく聞いていたそうであるが、反対にジョンは男っぽい音楽が好みで、「ミミ伯母さんは古くて女々しい音楽ばかりを聴いている。」と言っていたそうであるが、実はこっそりとそういった曲もよく聴いていたそうである。

★ジムが自宅のピアノで古いスタンダードナンバーを弾いていたのを、幼少のポールは聴いて育った。その思い出のひとつがナット・キング・コールの「The Very Thought Of You」という曲で、ポールは大ファンだという。

★ポール、、、「子供の頃の素敵な思い出と言ったら、床に寝転がって父のピアノを聴いたことさ。」

★フレッド・アステアの「Cheek To Cheek」もポールお気に入りの曲で、ジムが自宅のピアノでよく弾いていた。ポール、、、「親父はたくさんの曲を知っていて、大きな影響を受けたよ。」

★ポール、、、「いろいろな曲を教えて欲しいと親父にせがんだが、「だめだ、レッスンを受けなさい」と言っていた。親は大体そう言うよね。だから結局親父と同じように自分の耳で聴いて覚えたんだ。」

★ポール、、、「リヴァプールで過ごした子供のころに見た、たくさんの寂しい年配の女性たちのことを考えていた。ボクはその何人かと仲が良くてね。なんでだったのかは分からないけど。たぶんボクの両親がそうしていたからじゃないかな。父はとくに実直で礼儀正しい人だったから。一緒にバスに乗ると父はいつもボクと弟に立ち上がって年配の女性たちに席を譲るように言ったものさ。年配の女性たちも喜んでくれたし。だからボクは近所を回って「何か買い物があったらボクが行ってきましょうか?」と言ったりね。いい子ぶってたわけじゃないよ。いいことだと思ったからやっただけさ。それに、彼女たちが話してくれる昔ばなしが好きだった。ある女性が鉱石ラジオを作ってくれたのを覚えている。ボクにとって、それは未来から来たものみたいだった。ちゃんと電波を受信できたんだよ。」

★10歳のときに、リヴァプール聖歌隊のオーディションを受けるも、不合格となっている。当時の聖歌隊指揮者ロナルド・ウォーンは「ポールは楽譜が読めなかったから、不合格になったといわれているが、それは間違い。いつも以上に多くの子供達がオーディションを受けにやって来ていたんで、とっても狭き門だったんだ。」

★父ジムの音楽好きのおかげで、ピアノはもちろん当時としてはぜいたく品のレコード・プレーヤー付のラジオがあった。

★小学生の頃、学校からもらってきたリコーダーの吹き方をジムに教わろうとしたものの、ジムも吹き方を知らなかったため、ピアノで伴奏をつけて耳で音を拾う手助けをしたという。

★ポールが最初に買ってもらった楽器は誕生日プレゼントの「トランペット」である。近所で買った中古品だったそうである。

★14歳のときに母親を癌で亡くして以来、ポールは片時もギターを離さなかった。弟のマイクいわく「兄貴はギターをバスルームにまで持っていってたよ。」

★中学生の頃からオリジナル曲を作り始め、「I Lost My Little Girl」「I'll Follow The Sun」などは、その頃に作られている。

【ジョージ・ハリスン】

★リヴァプール・インスティチュートの生徒だった頃、制服着用に対する校則に絶対に従わない生徒ということで、ブラックリストに問題児として記録されていた。

★ジョージ、、、「タイトなドレイニーにベスト、そしてスエード・シューズでバッチリとキメた。ボクはそれがファッショナブルだと思っていた。しかし、どういうものを着るべきかということについて、学校の先生は別の考えを持っていた。」

★ジョージ、、、「こだわりがあって服を買うという金銭的余裕は無かった。それでも学生最後の年くらいには自分で白いシャツなんかを買って、そんな状況から抜け出すことが出来た。ダブルの襟付きのベストをポールからもらった。元々はジョンがもらったもので、それをポールがもらったものなんだ。」

★ジョージ、、、「ジャケットを黒に染めたこともあった。もとのチェック柄がうっすらと見えていた。普通のズボンを改造して作った黒色のドレイニーに先のとがったブルー・スウェード・シューズを組み合わせていた。当時はそんな感じで安上がりな工夫をしていたが、まあ、今から考えるとだらしない格好だったね。」

★ジョージが初めて触れたロックン・ロールはファッツ・ドミノの「I'm In Love Again」だそうである。

★最初のギターは友人から3ポンド(当時のレートで約¥3,000)で買ったボロボロのギター。音もろくに出ないギターを必死になって弾いているジョージを見た母親は、ジョージの真剣さを認めてちゃんとしてギターを買い与えた。ジョージは指に血がにじむまで練習をしたという。

★すっかりギターの虜になったジョージは、授業中にもノートの端にギターの絵をいくつも書いていた。

★この当時、兄のピーターと「レベルズ」というスキッフル・バンドを組むも長続きしなかった。

★あちこちのバンドに加入を打診するもことごとく断られ、トラブルやアクシデントでギタリストの都合が付かないバンドで代役として、日本円にして1回2~3,000円程度のギャラでステージに立っていた。

【リンゴ・スター】

★リンゴによると、13歳のとき1週間おきに打楽器を持った先生が家にきていたという。それがきっかけでドラムを始めた。ドラムを叩くと心が癒され、感情を発散し気持ちが開放されることに気がついた。リンゴはバンドのなかでドラマーは安定感がある必要があると考えていて、、そのことが音楽をまとめ上げて深い絆を結ぶことが出来ると考えている。

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