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【ア】

【アリステア・テイラー】

★1936年生まれ。2004年6月9日、気管支の病気にかかった後、睡眠中に死亡。

★1960年から1967年までブライアン・エプスタインの個人秘書を務め、その後はアップル総支配人に就任しビートルズのもとで働く。1969年、アラン・クラインに解雇される。

★アリステアの妻、レスリーのコメント、、、「アリステアはビートルズにほれ込んでいて、初めて見たときから彼らは何か特別だったと、いつも言っていました。彼はビートルズとアップルに非常に忠実で、一生懸命働き、仕事を楽しんでいました。」

★アリステアが亡くなったとき、ヨーコはユリの花束を遺族に贈った。

★アリステアの妻のコメント、、、「私がいままでに見た中で、いちばんすてきな花束でした。ヨーコはすべて純白の花にこだわってくれました。」

【エ】

【エリック・クラプトン】

★1964年12月にロンドンのハマースミス・オデオンでおこなわれたビートルズのクリスマスショー「アナザー・クリスマス・ショー」での出会いが最初である。

★ジョージ、、、「エリックとはもう何年も親しく付き合っている。今回のこと(パティがエリックの元へ去っていったこと)もすごくよかったと思っているよ。今も彼とはすごく仲がいいんだ。彼は素晴らしい男だから、彼女がどこかのくだらない奴と一緒になるよりずっとましだ。(1974年)」

【エルトン・ジョン】

★エルトンと作詞パートナーで盟友のバーニー・トービンは不遇時代にジョンに優しく励まされたことを、今でも決して忘れていないし、今後も絶対に忘れないとしている。

★「Empty Garden」という曲をジョンに捧げており、1974年にエルトンのマジソン・スクエア・ガーデンのステージにジョンが友情出演したことにちなみ、この曲はマジソン・スクエア・ガーデンでしか歌えないと語っている。

★エルトン、、、「音楽業界でジョン・レノンほど真摯で謙虚な人物には今まで会ったことがない、これからもないだろう。」

【カ】

【カール・パーキンス】

★ジョージ、、、「レコーディングのクォリティ、雰囲気、すべてにおいて「Blue Suede  Shoes」ほど完璧な曲は無い。シンプルなカントリー・ブルースとロカビリーを、カール独特のスタイルでミックスしている。」

★1960年に初めてプロのミュージシャンとしてツアーに出た時に、「カール・ハリスン」というステージ・ネームを自らに付けた。

★1985年の「スーパー・スター・ロカビリー・セッション」にはリンゴと共に出演。1992年6月のハード・ロック・カフェの21周年記念ライヴでもカールと共演している。

【キ】 

【キース・ムーン】

★キースはなんとビートルズのメンバーに「ビートルズに加入したい」という意味で「ボクが参加してもかまわないだろうか?」と提案した。ビートルズのメンバーは、その夜に開催されるパーティーに参加したいという意味だと思い、席を設けると言ったがキースは「ビートルズに参加したいという意味」だと繰り返し言ったという。リンゴは「ドラマーは間に合っているよ」と当然断ったが、キースは本気で言ったのだろうか?

★1970年代の半ばごろ、キースはリンゴの息子のザックにドラムを教えていた。リンゴはザックがプロのドラマーになることには反対していたという。

★1973年ウィングスのドラマー、デニー・サイウェルが脱退したことを知り、その後釜に座ろうと打診したものの、ポールに断られる。しかし、ポールと友情関係を築くことが出来た。

★リンゴの参加したキースのソロアルバム「Two Sides Of The Moon」に、ジョンは自身も歌った「Move Over Ms,L'」を提供している。

★ジョンのいわゆる「失われた週末」時代にキースはジョンの飲み友達だった。

1978年に薬物の過剰摂取で31歳の若さで亡くなったのは、ポールの自宅でのパーティーの後だった。

 

【ケ】

【ゲイリー・ライト】

★スプーキー・トゥースのヴォーカル、キーボーディスト。

★アルバム「All Things Must Pass」「Living In The Materal World」「Thirty Three & 1/3」「George Harrison」「Cloud Nine」等の数多くのジョージの作品に参加している。

★ジョージもゲイリーのアルバム「Footprint」「Who I Am」「First Signs Of Life」に参加している。

★クラウス・フォアマンの紹介でジョージと知り合っており、その後はジョージが勧めたインドの思想家の本に深く傾倒し、ふたりでインド旅行をしたりジョージとゲイリーは精神的な共通点をお互いに見出し、親友ともいえる付き合いをすることとなる。

【シ】

【ジェーン・アッシャー】

★1946年4月5日生まれ。

★レノン・マッカートニー作品「A World Without Love」を大ヒットさせた「ピーター&ゴードン」のピーター・アッシャーは彼女の兄。

★5歳で子役デビューし、1963年4月18日、ビートルズがロイヤル・アルバートホール出演後に楽屋で「ラジオ・タイムズ」誌の仕事で来ていたジェーンに出会う。

【ジミ・ヘンドリックス】

★特にポールとの親交が深く、ビートルズがモンタレー・ポップ・フェスティバルに出演しないことを決定したときに、ポールはジミを推薦している。

【ジョン・エントウィッスル】

★1982年のザ・フー解散ツアーで、最後に演奏されたのが「Twist And Shout」で、ジョン・エントウィッスルがヴォーカルを担当した。

1995年に第3期リンゴ・スター&ヒズ・オールスター・バンドに参加した。

【ス】

【スティーヴ・ミラー】

★1969年、ジョージとの共通の知人がグリン・ジョンズという縁で、ジョージの家に招かれている。

★その後、ジョージに連れられて「Get Back」のレコーディング・セッションの様子を見学し、曲を仕上げるスピードの速さに驚いたという。

★ポールのアルバム「Flaming Pie」収録の「Used To Be Bad」はスティーヴとの共作で、ヴォーカルとギターで参加してポールとデュエットしている。

 【チ】

【チャック・ベリー】

★「ロックン・ロールを別の名前で呼ぶとしたら、それはチャック・ベリーだ。」「ロックン・ロール詩人」とジョンはベリーに対して最大級の賛辞を贈っている。

★後に「マイク・ダグラス・ショー」で共演した際には、ジョンは「マイ・ヒーロー!」と紹介している。

【テ】

【デヴィッド・ギルモア】

★1946年3月6日、イギリス、ケンブリッジ生まれ。

★デヴィッド在籍前のピンク・フロイドがデビューアルバムをレコーディング中に、同じく「Sgt~」をレコーディング中のビートルズを表敬訪問している。ポール以外はピンク・フロイドに全く興味を示さなかった。

★ピンク・フロイドのプロデューサーはビートルズのエンジニアを務めたノーマン・スミス。

★ピンク・フロイドに興味を持ったポールは、彼らのレコーディングを見学。「彼らにはノックアウトされた」と衝撃を受けている。

★ポールとの交流が深く、ウィングス時代の「ロケストラ」のプロジェクトに参加。また「No More Lonely Nights」「I Love This House」「We Got Married」にも参加している。

★1999年の「Run Devil Run」に参加。キャヴァ―ン・クラブで行われたライヴにも出演した。

★リンゴのアルバム「Ringo Rama」に参加。

★「PETA」が主催するコンサートに出演したり、PETAの活動を支援するなどポールとのつながりが深い。

【デビッド・ボウイ】

★1975年1月、ニューヨークのレディランド・スタジオで「Across The Universe」「Fame」の2曲をデビッドとともにレコーディングした。

★ジョン、、、「デビッドが電話してきて「Across The Universe」をレコーディングしたいというから、そいつはいいやと思った。自分がレコーディングしたやつはあまり良くなかったからね。自分のバージョンは好きじゃないんだよ。スタジオに行ってリズム・トラックで参加したよ。その時彼があのリフを思いついたんだ。それで二人でもう1曲やった。「Fame」ってやつだ。楽しかったね。」

【ト】

【トム・ペティ】

★トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズの前身バンド「サンダウナーズ」はビートルズが出演した「エド・サリヴァン・ショー」に衝撃を受けて結成された。トレード・マークのリッケンバッカーのギターはジョージにあこがれてのもの。

★アルバム「クラウド9」のプロデューサーのジェフ・リンと路上で偶然出会い、自身のソロ・アルバムのプロデュースを依頼。ジョージやロイ・オービソンも参加した。同時にチャーリー・T・ジュニアという変名でトラヴェリング・ウィルベリーズの1stアルバムに参加する。

★2枚目のソロ・アルバム「Wildflowers」にはリンゴが参加している。

★ジョージの追悼コンサート「コンサート・フォー・ジョージ」にも参加している。

★1988年頃にジョージと知り合ったトム。ジョージとの出会いの様子を語る、、、「オレたちはボブ・ディランの楽屋にいた。そのときジョージが訪ねてきて、それで知り合いになったんだ。一緒に愉快で楽しい時間を過ごしたよ。ジョージは周囲を笑わせることの得意な、本当に楽しい人だった。オレは彼のジョークについていくのがやっとだったよ。なかには彼について反逆者のイメージを持っている人がいるけど、、、実際に彼はそうなんだけど、、、でも本当にジョージは面白いんだ、どんでもなくね。」

【ハ】

【ハウイー・ケイシー】

★リヴァプールのベテラン・ミュージシャンで、付き合いは1960年のハンブルグ時代からという長い付き合い。

★1974年8月にポールがドキュメンタリー映画「One Hand Clapping」の撮影時、バンド演奏に参加した。

★「One Hand Clapping」撮影後にポールは長期的にグループに参加するように誘い、1974、75、79年のウィングスのツアーに参加している。

【ヒ】

【ビクター・スピネッティ】

★初主演映画「ハード・デイズ・ナイト」を始め、3作のビートルズ映画に出演したスピネッティは、私生活でもビートルズのメンバーと親交を深めていて、スピネッティが風邪を引いたときなどジョージが看病したこともあった。

★ポールとの友情は長く続き、リンダを亡くしたときなどは頻繁に会っていた。ポールの2番目の妻へザー・ミルズが離婚に際してポールは暴力的などとマスコミに非難のコメントをしていた時期には、ポールを擁護するコメントを出している。

★へザー・ミルズが、リンダの娘のへザーにポールを会わせないようにしていたことを、スピネッティは激しく非難していた。

★2012年6月18日(奇しくもポールの誕生日)に82歳で死去。リンゴ、、、「ビクターとボクたちが一緒に仕事をしたとき楽しかったです。彼はいい人でした。ピース&ラヴ。」

★実際に葬儀に出向いてポールは弔辞を述べた。ポール、、、「ビクターは素晴らしい人間で、素晴らしい友人です。彼を古くから知っていたことを誇らしく思います。彼の不遜なウィットと熱狂的な性格は、ボクの記憶に永遠に残るでしょう。ボクは彼の誠実な友情を恋しく思います。素晴らしいスピネッティ氏を知り、愛する幸運に恵まれたみんなが、ボクと同じ気持ちでしょう。」

★ビクターのコメント、、、「私は彼らを大好きになった。私たちは親友になった。なかでもジョンがいちばん親しかったよ。私たちはあれこれ夜中までしゃべったもんさ。」

★ビクターのコメント、、、「ビートルズは若者が直接若者に語りかけた最初の記録された歴史だ。」

★ビクターのコメント、、、「ビートルズは世界でもっとも気取らない、感じのいい青年たちだった。本物のスターは、自分が何者か忘れないものさ。」

【ビリー・ジョエル】

★1949年5月9日、アメリカ、ニューヨーク州サウス・ブロンクス生まれ。

★デビュー当時、ジョンの別荘の横に住んでいたことがあり、時々ジョンの姿を見つけるものの声をかける勇気が無かった。ある日ジョンの方から声を掛けられ「君のことはよく知っているよ。いい曲を書いているね。」と励まされた。エルトン・ジョンの逸話もそうだが、ジョンは本当に心優しい。

★他のアーティストの曲で、もしそれが自分の曲だったらいいのになと思う曲はどれかと聞かれたポールは、ただ1曲ビリーのヒット曲「Honesty」を挙げた。

【ビリー・プレストン】

★1946年9月2日生まれ。3歳の時に母親の影響でピアノを始め「神童」と呼ばれ、7歳の頃にはゴスペルのオルガン奏者としてデビューした。

★1962年、リトル・リチャードのオルガン奏者としてツアーに出ていたとき、ハンブルグ公演でデビュー前のビートルズと出会う。

★このときビートルズのメンバーは食事もままならない状態で、見かねたビリーが食事を確保。お礼にジョンが「Love Me Do」のハーモニカの吹き方を教えたというエピソードがある。

★1964年8月18日、初の全米ツアーのためにサンフランシスコに来ていたビートルズ。ジョンとリンゴ、そしてデレク・テイラーはホテルを抜け出しクラブでビリーと再会している。

★1969年、レイ・チャールズのバックとしての公演を観に来ていたジョージが「ゲット・バック・セッション」に誘った。

★ギクシャクしていたビートルズのメンバーは、ビリーの人なつこい人間性と卓越したプレイで緊張状態が和らいだ。

★「Get Back」「Don't Let Me Down」で外部ミュージシャンとして史上初「The Beatles With Billy Preston」とクレジットされた。

★ゲットバック・セッションに参加したときに、ジョンは本気でビートルズのメンバーとして迎え入れようとしていた。これはポールの忠告によって立ち消えとなった。

★1971年12月20日、シングル「I Wrote A Simple Song / Outa-Space」アメリカでリリース。

【フ】

【フィル・スペクター】

★1939年12月26日、アメリカ、ニューヨーク生まれ。

★18歳の時に、テディ・ベアーズの一員として「To Know Her Is To Love Her」という全米チャート1位の曲をヒットさせている。

★21歳の時にはロネッツ、クリスタルズなどいくつものグループをプロデュースして多くのヒット曲を送り出し「若き天才プロデューサー」と呼ばれるようになる。多くの楽器による一発録音を独特の反響で左右に振り分ける「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれる手法は一世を風靡した。

★アルバム「Let It Be」の再プロデュースの他、ジョージのソロアルバム「All Things Must Pass」ジョンのシングル「Instant Karma !」、アルバム「John Lennon / Plastic Ono Band」「Imagine」他、多くの作品でプロデュース、または共同プロデュースを行なっている。

★1973年にジョンのアルバム「Rock 'N' Roll」のレコーディングの際に、録音テープを持ったまま行方不明となり、翌年3月のフィルの交通事故で復帰が不可能になるなど、さんざんな目に遭ったジョンはフィルとの縁を切らざるを得なかった。

【ブライアン・ウィルソン】

★ビートルズが1965年にリリースしたアルバム「Rubber Soul」を聴いたブライアンは衝撃を受け、これに対抗して彼自身がプロデュースし、さらにスタジオ・ミュージシャンを多用したビーチボーイズの傑作アルバム「Pet Sounds」を翌66年にリリースした。

★ブライアン・ウィルソン、、、「Rubber Soul」を聴いてぶっ飛んだ。そして、すごいアルバムを作ってやろうと決心したんだ。」

★高度な音楽性に裏打ちされた見事なまでのコンセプト・アルバム「Pet Sounds」は、ポールをして「打ちのめされた」と言わしめるほどポールにかなりの衝撃を与えた。これを上回る作品を作るべく制作に取り掛かったのが「Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band」である。

★ポールは「Pet Sounds」を聴きながらよく涙を流すそうで、収録曲「God Only Knows」を必ずお気に入りの曲のひとつに挙げる。また自分の子供たちに音楽教育のためにと、このアルバムを一枚ずつ買い与えている。

★ポール、、、「最高の曲だ。とにかくナンバーワンはGod Only Knowsで決まり。感情を揺さぶられる深い曲なんだ。聴くたびに感動して息が詰まりそうになるんだよ。胸にしみじみとくる曲はいくつかあるんだけど、この曲がいちばんだ。」

★ポール、、、「このアルバムを聴かせなきゃ音楽について教えることは出来ないと思った。だから自分の子供たちを育てるときに1枚づつ買い与えたんだ。」

★アルバム「Pet Sounds」収録のベースプレイが印象的な「That's Not Me」。ポールはこの曲のベースを聴いてメロディアスなベースを弾くようになったという。

★精神病を患い、長らく第一線を退いていたブライアンに対してポールのコメント、、、「今でも大ファンなんだ。ボクが好きだってことを彼にわかってほしい。彼によろしく伝えて欲しい。ボクのために健康でいて、前向きに物事を考えて欲しいと、、、。」

★1974年4月4日、ロサンゼルスで休暇中のポールは自宅で引きこもっているブライアンを訪ねた。家に中にいるのはわかっていたポールはドアを1時間以上叩き続けたが声を殺して泣くブライアンの声が聞こえたとのことで、仕方なくポールばブライアンの家を後にした。

★2000年6月15日、ソングライターの殿堂にブライアンが入ったとき、ポールはプレゼンターを務めて、「アメリカの生んだ天才のひとり」と最大の賛辞を贈っている。

★2002年、「Pet Sounds」を全曲演奏するツアーのロンドン公演にポールは客席に姿を見せ、6月の「エリザベス女王即位50周年記念ライヴ」で一緒のステージに立ち、9月にはロサンゼルスで共演。「Let It Be」「God Only Knows」をデュエットした。

★ブライアンが2000年当時飼っていた5匹の愛犬のうちの2匹の名前は、ポールとリンゴであった。

【フランク・シナトラ】

★リンゴが妻モーリーンがシナトラのファンだと伝えたところ、それならと「The Lady Is A Tramp (邦題 レディは気まぐれ)」の歌詞をモーリーン用に書き直した「The Lady Is A Champ」をピアノをバックに歌って、録音テープをモーリーンの誕生日のプレゼントとしてリンゴに渡した。リンゴはこれをレコード盤にして1968年8月4日のモーリーン22歳の誕生日にプレゼントした。

★「Something」をカバーした際には「Somethingというレノン・マッカートニーの曲は、ここ50年の間に世に出た曲の中で最高の曲だ。」と間違って発言してしまった。ポールは「ジョンもボクもシナトラに曲を提供出来たら最高だと思っていたんだ。間違っているけど光栄だ。悪いな、ジョージ。」と語った。

【ホ】

【ボブ・ディラン】

★リンゴ、、、「彼は明晰なときと、そうでないときがある。以前、彼のステージを観たとき、曲を聞き分ける事が困難だったが、少し前に観たときは彼は明瞭だった。彼はすばらしいよ。」

★ジョージ、、、「ボクらはいつもボブ・ディランのThe Freewheelin'Bob Dylanを聴いていた。」

★ジョン、、、「ボクらはボブ・ディランと同じくらいチャック・ベリーに影響を受けていた。」

★ジョン、、、「ディランのような、ある分野において最高の人物というのは、人に影響を与えずにはいられないのさ。」

★ビートルズ最初の全米ツアーの真っ最中の1964年8月28日、ニューヨークのデルモニコ・ホテルに滞在中のビートルズをディランが訪問した。このときディランは極上のマリファナをビートルズに勧め、これがビートルズのマリファナ初体験となった(実際にはすでにハンブルグ巡業時にマリファナを含む薬物は経験済みとの説のほうが有力)。このときに部屋にひっきりなしに掛かってくる電話にディランが「はい、こちらビートルマニアです。」といちいち対応していたという。

★この日ディランは新曲のデモテープを持参してきており、ビートルズのメンバーに聞かせている。

★後にニューヨークに定住したジョンの自宅を、ディランはジョーン・バエズを連れてよく訪れていた。ディランは必ず新曲を持参してきた。

★本名はロバート・ジマーマンだが、これをボブ・ディランとしたのはイギリスの詩人ディラン・トマスに憧れていたから。ビートルズのメンバーもディラン・トマスが好きで、アルバム「Sgt. Peppers Lonely Hearts Club Band」のアルバム・ジャケットに登場している。

★ディランのデビュー・アルバムのジャケット写真でかぶっている帽子を見て、ポールは「これがレノン・ハットのルーツだ」と語っている。

★ジョンが2冊の著書「In His Own Write」「A Spaniard In The Works」を出版したことにディランは相当触発された。

★ディランがイギリスで人気が出た頃ビートルズ同様なアイドル的な存在になってしまい、熱狂的な追っかけファンが会場やホテルに押しかけ取り囲む騒ぎがあちこちで起きた。これにはディランは閉口してしまい「ジョン・レノンに電話して、いつもどうしているのか聞いてみようぜ」と言っていた。

★ビートルズの影響で1965年にディランはフォーク・ギターをエレキ・ギターに持ち替えてコンサートをおこなった。ディラン、、、「ビートルズは、音楽がどこへ向かえばいいのかを示してくれた。」

★ディランの1966年英国ツアーを記録したドキュメンタリー映画「イート・ザ・ドキュメント」への出演をジョンに依頼する。ジョンは自分がわざわざ出演する意味がわからなかったし、前年に製作されたディランの映画に出演したドノバンが完全なディランの引き立て役にされてしまったことを知っていたために、一時は依頼を断っていたが最終的には出演した。ディランとの会話のシーンが撮影されたが、ディランは二日酔い状態で会話も弾まず、吐き気を催す始末。わざわざ人を呼んでおいて散々な状態のディランに対し、猜疑心を増幅させたジョンは辛らつな言葉を浴びせかけディランと決別した。

【マ】

【マイルス・デイヴィス】

★世界的映像作家ジョナス・メカスが1985年に発表したドキュメンタリー映画「時を数えて、砂漠に立つ」のワンシーンでマイルスとジョンが仲良くバスケット・ボールを楽しむ映像がある。

★ジョンはニューヨークのウェストサイド72丁目、マイルスは77丁目に住んでいたことから交流があったといわれている。

【マハリシ・マヘシ・ヨギ】

★1918年2月5日生まれ。2008年2月5日没。

★ヒンドゥー教に由来する超越瞑想とその普及を行なう諸団体の創立者。後にジョージ以外のメンバーは幻滅を覚えて彼から離れていくが、瞑想そのものにはその後も関心を持ち続け、ジョージのみならずポールも自宅に瞑想ルームを持っている。

★ジョージがロンドンのアーティストのデヴィッド・ウィンからマハリシのことを聞きロンドンで講義があることを知り、1967年8月24日にジョンとポールとヒルトン・ホテルで行われた講義に参加した。リンゴは次男ジェイソンが生まれたばかりだったので不参加。ミック・ジャガーやマリアンヌ・フェイスフルらも参加した。

★翌25日、ウェールズ州バンゴアで行われる、さらに高度な講義を受けるようにマハリシに勧められ、メンバー全員が参加することになった。特にジョンはシンシアとの旅行を取りやめての参加という熱の入れよう。シンシアも参加するために駅でビートルズ一行の列車に乗ろうとするが、ファンにもみくちゃにされて乗車できなかった。このときシンシアはジョンとの別れの予兆のようなものを感じたという。

★講義料は「その人の一週間分の給料」というシステムで、参加者全員同条件という公平さにジョンはかなり感心していた。

★ジョージ、、、「ミックはビートルズに遅れを取るまいと躍起になっていた。」

★ジョージ、、、「まずボクらはロックンロール・バンドをやりたかっただけだ。でもシェイクスピアが言うように、この世は舞台であり、人は役者にすぎない。ボクらは役を演じているだけさ。ビートルズとは、あの時期にボクらが身にまとっていた衣装の様なもので、本当のボクらじゃない。今ボクたちは自分の内側にあるものをもう一度取り戻そうとしているんだ。」

★仕事人間のポールは、やりかけの仕事であるテレビ映画「Magical Mystery Tour」のことが気になっていて仕方がない状態で、瞑想に集中することがとても大変だったという。

★ポール、、、「ドラッグにハマった次のステップとして、すべての意味を見つけることが必要だった。」

【マル・エヴァンズ】

★ビートルズ人気が不動のものとなりつつあった1963年夏、コンサート会場の出入りでさえもみくちゃの大騒ぎとなっていた。ロード・マネージャーのニール・アスピノール一人では対処できなくなっておりセカンド・アシスタントを雇うことになった。そこでキャヴァーンクラブで用心棒をやっていたことのある郵便局員のマルが雇われた。

★見かけによらず人なつこい性格で「ビッグ・マル」の愛称で呼ばれていた。

【ユ】

【ユルゲン・フォルマー】

★ポール、、、「彼に出会ったことは、ビートルズのメンバーの人生の中で、とても重要な出来事だった。彼のスタイル、センス、写真技術がボクらのキャリアに大きな影響を与え続けることになった。」

【ラ】

【ラヴィ・シャンカール】

★アメリカの人気ジャズ歌手&ピアニストのノラ・ジョーンズはスー・ジョーンズとの間に生まれた娘である。

【リ】

【リアム・ギャラガー】

★息子に「レノン」と名付けるほどのファンで、ヨーコから誕生祝にベビー服をプレゼントされている。2000年5月1日、オアシスのニューヨーク公演の後、楽屋を訪ねたヨーコにリアムは感激し大喜びしていた。

【リック・ダンコ】

★ザ・バンドのベーシスト。

★ジョージはビートルズ時代からザ・バンドと交流があり、ビデオ作品「ザ・バンド・ヒストリー」「メイキング・オブ・ザ・バンド」に出演もしている。

★リンゴのアルバム「Ringo」収録の「Sunshine Life For Me(Sail Away Raymond)」ではフィドルで参加。リンゴ&ヒズ・オールスター・バンドの第1期のメンバーであり、来日公演も果たしている。リンゴは1976年のザ・バンド解散コンサートにゲスト出演している。

【ロ】

【ロジャー・ダルトリー】

★1975年公開のロジャー・ダルトリー主演の映画「リストマニア」にリンゴはローマ法王役で出演している。

★ポールは1977年、ロジャーのソロアルバム「One Of The Boys」に「Giddy」という曲を提供している。

【ローリング・ストーンズ】

★1963年3月、ストーンズのマネージャー、アンドリュー・オールダムに誘われてビートルズのメンバーはストーンズのステージを観た。このときビートルズはすでにアルバム「Please Please Me」をリリースしてNo1を獲得して、サードシングル「From Me To You」がチャートを駆け上っていたが、ストーンズはまだアマチュアバンドだった。客席にビートルズのメンバーを発見したストーンズのメンバーはビビッたという。ステージ終了後に楽屋を訪問したが、ストーンズのメンバーは相当緊張し、ミックはビートルズの4人が高価な皮のコートを着ていたことにかなり羨ましがっていたという。

★マネージャーのアンドリュー・オールダムはビートルズを研究し、アイドルとしてのビートルズに対抗して「不良」のイメージで戦略を立てた。面白いのは国税局に勤める予定だったミック・ジャガー、ロンドン子であるチャーリー・ワッツなど実際のストーンズのメンバーはお坊ちゃまや優等生で、好青年のイメージのビートルズのメンバーのほうが下級階層出身だったり、かなりの不良であった。

★キース・リチャーズ、、、「ジョージと俺には絆がある。バンドで同じような役割だからな。互いにウィンクして「俺達がいなけりゃ、バンドは成り立たねえ」てわけだ。」

★ジョン、、、「まったくビートルズがくしゃみをするたびに、ストーンズは風邪をひきやがる。俺達がストーンズを操っている。俺達とストーンズとじゃ格が違う。」

★ジョン、、、「ストーンズとはロックン・ロール・サーカス以来会ってないな。あのフィルムもお蔵入りのままだ。ストーンズはステージをやるには年を食い過ぎたとかみんなが言っているけど、とんでもないね。ミックは絶対に衰えないよ。テレビでライヴを観たけどあれは素晴らしかった。最高のパフォーマンスだし、ミックこそ最高のパフォーマーだ。(1973年)」

【ロッド・スチュワート】

★1974年11月27日、サウス・ロンドン、ルイシャムのオデオン・シネマでロッド・スチュワート&フェイセズのステージにポールとリンダが予告なしで飛び入り参加。ポールの書いた「Mine For Me」でバック・コーラスを務めた。当初はフェイセズのステージを観るだけで、ステージに上がる気はまったく無かったが結局出てしまったのは、ステージ上からロッドに呼ばれ、ポールいわく「大根役者根性が出てしまったからだそうだ。また直前にフェイセズの楽屋で飲んだ酒の勢いもあったそうだ。

★ロッドに曲を書いたいきさつ、、、「酔っ払った夜の結果ってことかな。ロッドみたいなやつに曲を書くのは楽しいよ。彼はすごく個性的な声をしているだろ。曲を作りながら彼の歌声が聞こえるみたいな感じだ。人によっては、、、まあね、ちょっとつまんない相手だと、書く曲もつまらなくなるよね。」

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