【経緯】
★1968年10月頃、ホワイトアルバムのレコーディングを終えたビートルズはアップルでミーティングを開いている。ここでポールは「オーバーダビング無しのライヴ・レコーディング」を柱とした「アルバムのリリース、テレビ・ドキュメンタリーの製作、コンサート」を行なうプロジェクトを提案している。
★ジョン、、、「俺たちがどんなことをやるにせよ、最も大事なのはコミュニケーションであり、テレビに出るのもコミュニケーションだ。みんなに喜んでもらえる機会を作ることが出来る、そういうことを俺達はやりたいんだ。」
★ポール、、、「アップルでのミーティング時に、そろそろ何かをやるべきなんじゃないかとみんなに提案した。そのころはみんなが成功したことに満足して安住していたんだ。」
【テレビ・ドキュメンタリー】
★番組の最後で観客を前にライヴ・コンサートを行うとの構成で、アップルは1968年12月半ばごろにロンドンのライブハウス「ラウンドハウス」が会場になると発表。
★これはすぐに延期となり、年が明けた1969年1月18日になると発表。また会場はラウンドハウスのほかにキャヴァ―ン・クラブ二なる可能性もあるとして、ニュー・アルバムはこのステージを収録した作品になるとした。
★1969年1月2日からスタートしたゲットバック・セッションと同時進行のドキュメンタリーの撮影は、映画「A Hard Day's Night」「Help !」でおなじみのトゥイッケナム・スタジオが使用された。
★トゥイッケナム・スタジオは音楽用のスタジオではないために、音響設備が整っていないことに加え必要以上に広くて室温も低くて、あらゆる面でストレスの溜まる環境であった。
★トゥイッケナム・スタジオでの録音は、テレビ及び映画のサウンドトラックの使用に合わせた高品質なものが求められた。モノトラックのレコーダーである放送用のナグラ・テープは収録時間が短かったために、2台のレコーダーを交互に稼働させていた。
★ヨーコがジョンの代わりに発言することも、緊張感が走り険悪なムードが漂う原因だったという。
★ニール・アスピノール、、、「トゥイッケナム・スタジオの使用に全員が賛成していたかどうかは、ボクはよく知らない。ビートルズの映画でよく使っていたスタジオなので、そこに決まったんだと思う。とにかく彼らは自分たちがやることをそのまま撮影することにしたんだ。1月だったからね、スタジオ内はとんでもなく寒くて、あんな場所でアルバムを作るなんておかしな話さ。撮影用のスタジオだから当然レコーディングの設備はない。だからポータブルの機材を持ち込んだ。クリエイティヴな仕事をしようにも、常にカメラが回っていたから理想的なアルバム制作なんてできないよ。」
★ジョン、、、「この世で最も悲惨なセッション。あの撮影は地獄だった。」
★ジョン、、、「とにかくリハーサルの必要性を全く感じなかった。まっぴらごめんだった。それに集中できなかったな。数曲レコーディングしたけど誰も真剣に打ち込んではいなかった。トゥイッケナム・スタジオには重苦しい空気が漂っていて、しかも四六時中撮影されていた。オレはとにかくあそこから逃げ出したかった。俺たちを撮影する奴らがいる中で、色のついた変なライトが当たっている変な場所で音楽なんかできるわけがない。」
★1月10日のセッションで、午前中にはポールとそして昼食時にジョンと口論となったジョージはバンドを脱退してしまう。
★ジョージ、、、「新年になったし、新しいスタイルでレコーディングすると聞いていたんで、かなり楽観的に構えていたんだ。ところがふたを開けてみれば前のアルバム(ホワイト・アルバム)の時と同じで、ただ苦しいだけだった。」
★ジョージの復帰条件のひとつに「トゥイッケナム・スタジオからの撤収」があった。この時点で未完成状態だったアップル・スタジオに移すことになったが機材が揃っておらず、ジョージが所有する8トラックレコーダーを使い、さらにはEMIからもう一台の8トラックレコーダーを搬入した。またミキシング・コンソールはなんとEMIが廃棄する予定にしていたものをジョージ・マーティンが引き取って設置した。
★他の復帰条件は「テレビ特番でコンサートはやらない」というものだった。これでテレビ特番の話は立ち消えとなった。
★リンゴ、、、「全員でジョージの家に行った。そしてボクらはみんな君のことが好きなんだと伝えた。そうしたら戻ってきてくれた。」
★1月22日、ビリー・プレストンを連れてジョージが復帰。ジョージ、、、「ジョンとポールはもう少し自分を制御する必要があった。ビリーの参加はその助けにもなった。」
★1970年3月、テレビ・ドキュメンタリーから劇場用映画に変更することが決定された。
★ビートルズ主演映画作品はユナイト映画社と3本製作する契約になっており、映画「イエロー・サブマリン」はアニメ作品だったために契約外となり、契約を履行するために映画に移行したとの説がある。
★音楽監督にはグリン・ジョンズが起用された。ポールから1968年12月に要請を受けており、同時に製作するアルバムのプロデュースも依頼された。
★ニュー・アルバムのプロデュースをグリン・ジョンズに依頼したことを知らされていなかったジョージ・マーティンはレコード、テレビ、ライヴの融合するプロジェクトに乗り気であった。当然ジョージ・マーティンはスタジオに入り指揮を執っていた。
【アルバム Get Back】
※撮影と同時進行のため、一部出来事は映画撮影時の事柄と被ります。
★1969年1月2日、トゥイッケナム・スタジオにて映画撮影と同時進行のアルバム制作がスタートする。
★1969年2月にアップルから発表がある。内容はビートルズのアルバムのレベルにするには曲数が足らず、リンゴの映画撮影のスケジュールが迫っているために完成に時間が掛るといった内容。1969年の夏の終わりごろにリリース予定だとされた。
★1969年3月より、エンジニアのグリン・ジョンズは何百時間にも及ぶ膨大な録音テープの編集に取り掛かる。
★1969年5月28日、グリン・ジョンズは悪戦苦闘の末に一応アルバムの形にまとめた音源をテスト・レコード盤にした。メンバーや関係者に配布されたが、ジョンとポールが仕上がりに納得できないということで、グリン・ジョンズは改めて作り直しことになった。
★5月28日のテスト盤収録曲、、、【A面】One After 909 / Rocker / Save The Last Dance~Don't Let Me Down / Dig A Pony / I've Got A Feeling / Get Back 【B面】For You Blue / Teddy Boy / Two Of Us / Maggie Nae / Dig It / Let It Be / The Long And Winding Road / Get Back (reprise)
★1969年7月、当初のタイトル「Get Back」から「Get Back , Don't Let Me Down, And 9 Other Titles」に変更予定と発表される。
★1969年8月、この年のクリスマスに映画公開と同時にアルバムをリリース予定だと発表する。同じころにアルバム「Abbey Road」の存在も明かされており混迷を深めた。
★世界中で大ヒットして驚異的な売り上げを記録するアルバム「Abbey Road」の陰で放置されていた「Get Back」だが、映画が完成に近づいてくると、その内容に沿った形でのアルバム編集に再びグリン・ジョンズが挑んだ。
★映画には使われなかった「Teddy Boy」をカットし「I Me Mine」「Across The Universe」を加えた。
★1970年1月5日、再テスト盤収録曲、、、【A面】One After 909 / Rocker / SAve The Last Dance~Don't Let Me Down / Dig A Pony / I've Got A Feeling / Get Back / Let It Be 【B面】For You Blue / Two Of Us / Maggie Mae / Dig It / The Long And Winding Road / I Me Mine / Across The Universe / Get Back (reprise)
★ジョージ・マーティン、、、「最初から不幸なアルバムだった。彼らが本当に対立していた時期だったからね。Abbey Roadの前だったけど、私はLet It Beが最後のアルバムになるだろうと思っていたし、みんなもそう思っていた。彼らはすごい勢いで喧嘩をしていたよ。ジョンは編集やオーバーダビングのない、ありのままの自然なアルバムを作りたいと言っていた。そこで私たちはそのようにやった。しかし出来たものは退屈なものだった。なぜなら彼らは同じ曲を何回も繰り返し続けたからだ。群を抜いて良いものは一つも無かったし、申し分のないものもひとつも無かった。編集して良い部分をつなぎ合わすことが出来たら良かったんだが、私は彼らが言うところの「正直なアルバム」というものを作り上げた。でもそれは放っておかれた。次にAbbey Roadを作ったが、従来のやり方でプロデュースすることが出来たので、はるかに楽しいレコーディングが出来た。」
★For You Blue、、、アルバム「Let It Be」「Anthology3」と同じく1969年1月25日収録のものだが、別テイクである。
★1969年4月にアップルがアルバムのリリースを発表した。しかし予定していた収録曲12曲が揃わなかったために、急遽、「I Want You (she's so heavy)」をレコーディングすることとなった。他には「Octopus's Garden」「Oh ! Darling」「She Came In Through The Bathroom Window」「You Know My Name (look up the number)」も収録曲としてレコーディングされたものの、仕上がらずに収録は見送りとなった。
★ビリー・プレストン、、、「彼らとは随分会っていなかったけど、再会してみてハンブルグ時代とあまり変わっていないように見えた。ボクをとてもくつろがせてくれて、弾きたいように弾かせてくれた。彼らが当時どんな状況だったのか、ずっと後までそのことは知らなかったんだ。」