戻る

【ジョン・レノン】

★担ぎ込まれた病院で死亡が確認されたとき、偶然にも病院内のスピーカーから「All My Loving」が流れていた。

★アップルにも所属していたシンガー・ソング・ライターのジェームス・テイラーは自室で銃声を聞いた。

★1981年12月8日、リヴァプールのセント・ジョージズ・ホールで追悼式を、屋外では追悼コンサートが行われた。

【マーク・チャップマン服役の記録】

★ニューヨークのアッティカ州刑務所に終身刑にて服役。

★1984年4月12日、マーク・デービッド・チャップマンの弁護団が減刑をニューヨークの法廷に求めた。チャップマンが罪を認めた時は正常な判断が出来ない精神状態にあったためという理由だが、この申し立ては却下された。

★1991、1992年にアメリカNBCテレビがニューヨークのアッティカ刑務所で服役している、マーク・デビッド・チャップマン受刑者にインタビューして、2005年11月18日に2時間のドキュメンタリー番組として放映した。インタビューでチャップマン受刑者は「射殺は強制されたもので、自分自身を救うためにはこれしかないと確信した」「何があっても私を止めることはできなかった」「私の内部で何かが壊れ、自分のアイデンティティはジョンを殺害することで発見されると考えた」「頭の中で声が聞こえた。声は「やれ、やれ、やれ」と繰り返した。だからジョンが通り過ぎたとき、私は銃を取り出し、背中を狙って続けざまに5発ぶっ放した。」などと語った。

★二度目の仮釈放申請、、、2002年、奇しくもジョンの誕生日の10月9日に申請したものの、ニューヨーク州仮釈放委員会は却下した。ニューヨーク州仮釈放委員会の声明、、、「現時点で釈放を決定することは罪の重大さを軽視し、法に対する尊重を損ねることになる。」

★三度目の仮釈放申請、、、2004年10月、マーク・デーヴィッド・チャップマンは3回目の仮釈放の権利を得た。チャップマンは過去にも2回仮釈放の権利を得ていたが、却下されている。仮釈放に反対する署名活動がオンライン上で行なわれる。ニューヨーク矯正協会のローバート・ガンジ事務局長、、、「人々の記憶に彼の犯罪が残っている限り、彼が陽の目を見ることはないだろう。」

★この2004年の仮釈放申請に対し、10月5日、ニューヨークの仮釈放審査委員会は却下の決定を下した。マーク・チャップマン受刑者に言い渡した内容は「長期間にわたる行動過程には人命に対する敬意が明らかに欠如しており、殺害行為を目撃した被害者の妻を途方も無い苦痛にさらしている。」というもの。次回の仮釈放申請は2年後の2006年10月。

★五度目の仮釈放申請、、、2008年8月、仮釈放委員会と対面する。ジョンのファン1,000人以上の署名が入った、チャップマン仮釈放反対の嘆願書、50通以上の手紙が仮釈放委員会に届いたが、仮釈放を求める手紙が3通あったという。

【コメント】

★ポール、、、「もし、ジョンが生き返ったなら、ジョンがヨーコに言ったことをみんなにも言ってもらいたいよ。やっぱりジョンはボクのことが大好きだったって。」

★(2007年のインタビューで、ジョンが亡くなったときどこにいたか?の問いに対して)ポール、、、「ジョンが亡くなったとき、ボクはサセックスの自宅にいた。そこがボクがいた場所だよ。ボクの当時のマネージャーが電話をしてきた。これ以上ないショックだったよ、わかるだろ?」

★(2007年のインタビューで、ジョンが亡くなったときどこにいたか?の問いに対して)リンゴ、、、「ボクはバハマにいて、子供達が叫んで、何かあったのか?と聞いた。ジョンの身に何かあったのかと。それから実際に、ジョンがひどい怪我を負ったという電話を受けた。僕たちはまずヨーコを見舞うためニューヨークへ飛んだ。ほら、こういうときはどうしていいかわからないんだよ。そしてあの場はすごくクレイジーになっていた。それで僕たちはあまりあの状況のなかにいてもヨーコの助けにはなっていないと判断した。それで僕たちはロサンゼルスに戻った。」

★1984年4月14日、イギリスの雑誌「ウーマンズ・オウンズ」にヨーコのコメントが掲載された。「まだ怒りは消えていません。到底、許す気にはなれません。」

★ヨーコ、、、「ジョンは世界に対して非常に責任感の強い人でした。私は彼に影で意見を言ったに過ぎません。私はいつもジョンの後ろにいたんです。ジョンを殺した人は、私も殺そうとしていました。私のほうにも弾が飛んできましたから。でも、まずジョンだったのです。次はヨーコ。ジョンのうしろにいたので私は助かりました。」

★ヨーコ、、、「未亡人になったとき、とても怖かったんです。横に寝ていた人が突然いなくなったわけですから。未亡人専門の詐欺師とか、その類の人が私の周りにいっぱい寄ってきました。ショーンのためにもちゃんと生き残らねばと私は思いました。」

【ジョージ・ハリスン】

★2004年にジョージの遺族は、主治医だったスタテン島大学病院のギル・レダーマンを訴えた。ジョージが死去する2週間前にレダーマン医師が息子のギターにサインをするようにジョージに強制。ジョージは「もう自分の名前を綴ることができるかどうかさえわからない」と拒否したが、レダーマン医師は「君ならできる」と言って、ジョージの手をとりジョージに多大な労力と不快感を与えながらギターにサインを書かせたという。

★ジョージの遺族の弁護士ポール・リカルシのコメント、、、「ジョージは横たわり死に直面していた。なのにあの医師はジョージにギターにサインするように強要したのです。このような行為で医師が利益を得ることを許すべきではありません。」

★レダーマン医師は自身の知名度を高めるためジョージのプライバシーを侵害し、ジョージの死後まもなく複数のマスコミのインタビューを受け入れ、ジョージの許可なしでプライバシーを話している。

★レダーマン医師の弁護士ウェイン・ロートの反論コメント、、、「レダーマン医師はハリスン氏と親密で個人的な関係を築いており、ハリスン氏は進んでギターにサインした。」

★後にギターを非公開して処分、代わりのギターをレダーマン医師の息子アリエル・レダーマン(14)に贈ることで和解した。

★連邦裁判所のガローフィス裁判官のコメント、、、「ジョージの音楽は私世代の身と心に語りかけた。和解によって威厳を保ち、すべての関係者のプライバシーを守った。」

★ポール、、、「ジョージの死は、僕たちみんなもジョージ自身もわかっていた。だから悲劇のなかにもいいこともあったんだ。ジョンの場合はすべてが悲劇だったけど、ジョージには会うことが出来た、ジョージが亡くなる少し前にね。とにかくそれは最高だった。なぜなら僕たちはただこうやって座ってジョージの手をさすっていた。そして、そいつは、ほら、子供のときから知っている男だ。男の手を普通はさすったりしないだろ。僕たちは2,3時間そうやって過ごした。とてもすてきな時間だった。僕の大切な記憶だ。」

★パティ・ボイド、、、「ジョージが亡くなったとき、私は泣き崩れました。彼の元を去った私は正しかったのかしら?」

★パティ・ボイド、、、「私はジョージを失った喪失感に襲われました。ジョージのいない世界は耐えられませんでした。ジョージはエリックのもとへ去る私に「辛くなったらいつでも戻っておいで」と言いました。ジョージが亡くなったことによって、守られている感覚が失われました。私が最後にジョージに会ったのは、私の別荘でした。リンゴとバーバラをたずねてサセックスに行く途中、私に会いたいと言ってきました。ああして最後にジョージに会えたことを嬉しく思っています。」

★パティ・ボイド、、、「私は一生ジョージを恋しく思うでしょう。信じられないくらい鮮明な彼の夢を見ることがあります。まるで生きているかのような。そして目が覚めると、悲しい現実が押し寄せるのです。」

【ポール・マッカートニー】

★今では到底考えられないが、ビートルズ時代は気軽にファンを自宅に招いていた。しかし、1980年のジョンの事件で警備員を配置するようになり、ジョージが1999年に侵入者に刺されてからは、その警備はさらに厳重になった。

★2007年3月30日、ポールのサセックス州ピースマーシュの自宅敷地内に、何者かが何かを叫びつつ、乗っていた車で猛スピードで突っ込んだ。最後のセキュリティ・ゲートを警備員が閉じたことで、男が家屋に到達することは防ぐことが出来た。警察に逮捕され、男は「ポールに会いたい」とわめいていたが、精神鑑定の結果釈放されている。

【ハレ・クリシュナ】

★宗教団体「クリシュナ意識国際協会」に資金援助などを行ない、長年にわたって協力を惜しまなかったジョージ。2004年11月にイギリス、ハートフォードシャーにあるハレ・クリシュナの荘園で信者によるジョージの追悼集会が行われた。この荘園の土地は1973年にジョージが土地を買い、協会に寄付をしたものである。

inserted by FC2 system