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【クォーリーメン結成】

★1957年3月、前の年にエルヴィス・プレスリーの「ハート・ブレイク・ホテル」を聴いてロックの魅力にとりつかれた16歳の少年ジョンは、ミミおばさんをやっとのことで説得し、17ポンドでギターを買ってもらった。友人のピート・ショットンとバンドを結成したが、実は最初から「クォーリーメン」というバンド名ではなく「ブラック・ジャックス」とジョンは命名した。

★当時イギリスのティーンエイジャーに影響を与えた存在がロニー・ドネガンを筆頭とする「スキッフル・ブーム」である。スキッフルは20世紀前半にアメリカで生まれた音楽のジャンルで、ジャズ、ブルース、カントリーなどの影響を受けている。ギターと洗濯板、茶箱のほうきの柄を差し込みコードを張った「ティーチェスト・ベース」があればお手軽にスキッフル・バンドを結成できるとあって、折から大ヒットしていたドネガンの「Rock Island Line」の影響もあってイギリス全土で数千、リヴァプールだけでも数百ものスキッフル・バンドがあったという。

★ジョージ、、、「スキッフルに感謝することはいろいろある。スキッフルがシンプルでなかったら、ギターにあんなに時間を費やすことはなかったかもしれない。おかげでギターのことがよくわかるようになった。ギターをやっていなければ、ボクはこの仕事をやっていないだろうね。あの頃はとにかくスキッフルが大好きで、今聴いてもかなりいい。間違いなくラップ、ヒップホップ、テクノなんかよりもいい。(1997年)」

★「クォーリーメン、生まれる前から強かった」との一節がある。ジョンとピートの通っていたクォーリーバンク・ハイスクールの校歌である。こっちのほうがいいということで、バンド名は「ブラック・ジャックス」から「クォーリーメン」へ。バンド結成からわずか1週間目のことである。

★メンバーの入れ替わりが激しく、正確なラインナップというのは判然としないが、分かっているところではジョンとピートに続きティーチェスト・ベースを担当したクラスメイトのビル・スミスが最初に加わった。

★その他の初期メンバー、ロッド・デイヴィス(バンジョー)、エリック・グリフィス(ギター)、レン・ギャリー、アイヴァン・ボーン、ナイジェル・ウィリー(以上ベース)、コリン・ハントン(ドラムス)。リーダーのジョンはギター&ヴォーカル、ピート・ショットンはたまに洗濯板担当。

★友人たちのパーティやダンス・ホールなどで開かれていたスキッフル・コンテストなどで演奏していたが、1957年6月9日クオリーメンの最初の公式なステージとなるキャロル・リーヴィス主催のテレビ・タレント発掘のコンテストに出場した。

★この全国規模のコンテストはATVという民間のTV局に自分の番組を持っていたキャロル・リーヴィスが、番組に発掘したタレント等を出演させるためにイギリス全土をまわって地区予選を行なっていたものである。NHKののど自慢に似ているが、少し違うのは、腹話術師、曲芸師、のこぎり演奏家などもコンテストに出ていたこと。

★リヴァプールのエンパイア・シアターで行なわれた予選会に出場したクオリーメンは最初の予選で落ちた。

★1957年6月22日、勅許状発布750周年記念祭で演奏。近所の男性が石炭運搬車をステージとして提供してくれ、その荷台の上で演奏した。この日、隣町の不良グループにバンドメンバーを袋叩きにすると脅され、ジョンに至っては「レノンの野郎」と名指しで脅されていた。

【ジョンとポールの出会い】

★1957年7月6日、ウールトンにある「セント・ピータース地区教会」で演奏した。昼は教会の裏庭の仮設ステージで、夜は教会のホールで開かれたダンス・パーティでジョージ・エドワーズ・バンドと交互に演奏。昼の部の写真はクオリーバンク・ハイスクールの生徒ジェフ・リンドが撮影している。チェックのシャツでギターを抱えながら歌っているジョンの」あの写真である。

★このときのクォーリーメンの演奏を録音したテープが現存しているという。リヴァプールの元警察官のボブ・モリヌークスが何本かのオープンリール・テープに録音している。収録されている音源はほとんどがジョージ・エドワーズ・バンドの演奏であるが、クォーリーメンの演奏も4分間残されている。1963年にジョンに買取を打診したものの返事が無く、そのままずっと保管していたが後にEMI]がテープを買い取った。クォーリーメンが演奏した2曲のうち1曲は当時イギリスでヒットしていたロニー・ドネガンの「Puttin' On The Style」である。

★ポールがジョンに会ったのはクオリーメンが夜の部に備えて楽器のセッティングをしていたときで、アイヴァン・ボーンがリヴァプール・インスティチュートのクラスメイトのポールをジョンに紹介した。

★ポールはクォーリーメンのメンバーの前でエディ・コクランの「Twenty Flight Rock」、ジーン・ヴィンセントの「Be-Bop-A-Lula」弾いてみせた。どちらもジョンお気に入りの曲だったが、歌詞をよく知らないジョンは適当な歌詞で歌っていた。そんなジョンに対して、歌詞を覚えるのが得意なポールは歌詞を紙に書いてジョンに渡している。

★ポールはジョンとエリック・グリフィスの目の前でギターをチューニングしてみせた。当時チューニングができなかったジョンとエリックはウールトンのキングス・ドライブに住んでいる男にわずかばかりのお金を渡してチューニングしてもらっていた。

★その後ジョンはすごい才能を持つポールをバンドに入れてグレードを上げるか、ポールを加入させずに今までどおり地道にやっていくかかなり悩んだという。ポールを加入させたらバンドのリーダーとしての自分の立場が危うくなる、加入させなければ自分がこれまで通りボスでいられる。悩みに悩んだ末にポール加入を決断する。

★2週間後に、偶然ポールに会ったピート・ショットンがバンドを代表してクォーリーメンに加入しないかと誘い、ポールはしばらく考えてからOKの返事をしている。

★1957年8月7日、クォーリーメンはキャヴァ-ンクラブに初出演した。キャヴァーンのオーナーであるアラン・シトナーが元クォーリーメンのメンバーだったナイジェル・ウェイリーとゴルフ仲間で、そのつてでキャヴァーン・クラブでの出演が決まった。そこそこ客に受けたことに気を良くしたジョンは調子に乗って「Hound Dog」「Blue Suede Shoes」を続けて歌ったが、当時、正当なジャズ・クラブとして営業していたために、オーナーであるアラン・シトナーが激怒、すぐにその不愉快なロックをやめろ!とのメモをステージにまわした。ポールは弟のマイケルとともにボーイスカウトのキャンプに出かけていたために参加していない。

★1957年10月18日、リヴァプールのノリス・グリーンにあるクラブ「ニュー・クラブムーア・ホール」でクォーリーメンのステージ。クォーリーメンのリードギターとして初めてジョンと一緒のステージに立ったポールは、初ステージということでかなりアガってしまい、「Guitar Boogie」という曲のソロ・パートで致命的な演奏ミスをしてしまう。

★誰かがジョンとポールに母親のことを聞くと、わざと悲しい声で「おふくろは死んだよ」と答えてからかったり、眉をひそめるブラックジョークを言ったりしていた。

★11月7日、ウィルソン・ホールでこの日を始めとして、4回演奏した。リヴァプールのダンスパーティ・プロモーターであるチャーリー・マック主催の「リズム・ナイト」というイベントである。

★11月16日、スタンリー食肉市場での社交クラブで開かれたパーティに出演。屠殺場の職員、食肉運搬業者やその家族にとってクオリーメンの2回の演奏はひどく耳障りだったようで、その後2度と呼ばれることは無かった。

★11月23日、ニュー・クラブムーア・ホールでの再出演。

★12月7日、ウィルソン・ホールで土曜の夜の部に出演させてもらえる。今までは木曜日の出演だったのが土曜日の夜ということで、ちょっぴりバンドの格が上がった。

★1958年1月10日、本来なら前日の9日にウィルソン・ホールに出演予定であったが、プロモーターのチャーリー・マックがこれを変更して、この日のニュー・クラブムーア・ホールの出演となった。

★このころのクォーリーメンは、まっとうな仕事に就いてバンドを辞めるメンバーもいて、ジョン、ポール、レン・ギャリー、エリック・グリフィス、コリン・ハントンの5人になっていた。

【ジョージの加入】

★2月6日、ウィルソン・ホールで演奏。当時中学生だったジョージがこの日、クォーリーメンのメンバーに会ったと証言している。しかし、1963年にレコード・ミラー誌のアンケートには「学校の近くのフィッシュ&チップスの店で会った」と答えている。

★ジョージによると、ガーストンにあるウィルソン・ホールでクォーリーメンの演奏を見た後に、ポールがジョンを紹介したと証言している。

★ジョージがクォーリーメンに紹介された日について、本人であるジョージは上記のように2月6日と証言しているが、ドラムのコリン・ハントンは3月13日にモーグ・スキッフル・セラーだったと言っている。ジョージの母親は地元のフィッシュ・アンド・チップスの店だったと言っている。また親友のピート・ショットンによればジョージと同じ学校に通っていたポールがジョージの住む公営住宅までバンドを連れて行って、そこで会ったと言っている。

★ジョージは指に血がにじむくらい練習していて、ギターの腕前は確かだったが、10代の若者にとって2歳半の年齢差は大きく、ジョンは子ども扱いしてまったく相手にしなかった。

★ジョージは何とかジョンに認めてもらおうとして、バンドが演奏する場所にくっ付いてまわり、一生懸命に気に入ってもらおうと辛抱強く努力したという。

★ジョージは、何とかジョンに気に入ってもらえるように、そしてバンドに加入させてもらえるようにと、新しいコードが弾けるようになったとジョンに報告したり、つきまとい?が過ぎてジョンとシンシアのデートの邪魔になったりして、ジョンにうるさがられていた。

★3月13日、18歳のアラン・コールドウェルが始めたクラブ「モーグ・スキッフル・セラー」のオープニング・ナイトに出演。アラン・コールドウェルは「テキサンズ」というバンドを率いていて、後にロリー・ストームに改名。バンド名も「ハリケーンズ」に変えた。リンゴは1959年3月25日に参加している。

★モーグ・スキッフル・セラーは100人ほど入れる大きさだったが、地下にあり照明は青い裸電球一個と一本の蛍光灯のみ。このようなひどい環境で人を集めることは危険で当然違法であったため、4月1日に警察が立ち入り検査をして4月22日に閉鎖になった。

★この日、ジョージはバンドのメンバーが取り囲む中、伝説となった「Raunchy」の演奏を行なう。

★深夜バスの2階で、ジョンとポールの前で「Raunchy」を披露したという説もある。

★ジョージ、、、「別のバンドに素晴らしいギタリストがいて、そいつくらい上手にギターを弾けたらグループに入れてやってもいい。そうジョンは言ったんだ。ボクが「Raunchy」を弾くとジョンは「よし、入れてやる」って言ったんだ。それからジョンはよく「おーいジョージ、Raunchyをやってくれ」ってよく言ったものさ。

★ジョージ加入の決め手になったのは、ビル・ジャスティスのインスト曲「Raunchy」の見事な演奏をジョンが気に入ったのが理由とされていてポールもそう証言しているが、別の説では、ジョンも髪を切るのが嫌いで同じく髪を切るのが嫌いなジョージと気が合ったからというものがある。

★ジョン、、、「ポールと会っていると、ちょうど二人で集会をやっているような感じだった。つまりオレたちは「ウマ」が合ったんだ。それがジョージを加えて、同じような考え方を持った人間が3人になったんだ。」

★1958年3月、ポールはバトリン・ホリデイ・キャンプで働いていた家族のの知り合いのマイク・ロビンズに学校が夏休みの間だけでもよいから、バンドを雇ってもらえないだろうか?という手紙を書いているが採用されなかった。そもそもエリック・グリフィスとコリン・ハントンは定職を持っていて、これを捨てる気は無かった。

★ジョンとポールが一緒に曲作りを始めたのはこの頃で、「I Lost My Little Girl」「Love Me Do」「One After 909」「When I'm Sixty-Four」「Hot As Sun」などはこの頃に書かれた。

★1958年半ば頃 リヴァプールのケンジントン53番地にある、パーシー・フィリップスという老人に家の奥にある部屋を借りてデモテープを録音した。コリン・ハントンは参加せず、ジョン、ポール、ジョージ、ジョン・ロウの4人でレコーディング。

★4人は17シリング6ペンスをかき集めて、録音したデモテープでSPレコードを製作した。A面はバディ・ホリーの「That'll Be The Day」、B面はポールとジョージの共作「In Spite Of All The Danger」で、2曲ともジョンがヴォーカル担当。

★微妙に内容が違う証言がある。パーシー・F・フィリップスは電器店を経営していて、店の奥がスタジオになっていてレコーディングをしたというもの。お金が15シリングしか集まらず、残りを支払うまでレコード盤を渡してもらえなかった。レコーディングに使われたテープは、経費節減の使い回しをするために消去されている。

★ジョン・ロウの記憶によると、フィリップ氏の記憶にある「テープに録音した後にカッティングした」のではなく、直接演奏をレコード盤にカッティングしたと証言している。

★後に「アンソロジー」に収録された「In Spite Of All The Danger」は、編集され実際の演奏より42秒短くなっている。

★ポール「In Spite Of All The Danger」について「ボクとジョージが作曲したことになっているけど、実際はボクが書いて、ジョージがギター・ソロを弾いたんだと思うよ。」

★このたった1枚しか存在しないレコード盤はメンバーの間で順に廻されて、最後はジョン・ロウの手元にやってきて、そのまま保管されてきた。1981年になってポールに売却したが、最初にポールが提示した金額は5,000ポンド(当時のレートで約128万円)だったが、ジョン・ロウは断っている。

★ポールの所有になったこのオリジナルのレコード盤は「レコード・コレクター誌」の1998年12月号には、当時の価格として1万2000ポンド(当時のレートで約308万円)の評価となっており、イギリスで最もレアなレコードとして紹介されている。

★12月20日、ハリスン宅で行われたジョージの兄ハリーとアイリーン・マッキャンとの結婚披露パーティでノーギャラで演奏。

★1959年1月1日、スピーク・バース・デポウ・ソーシャル・クラブ主催の少し遅いクリスマス・パーティに出演。ジョージの父親のハリーがこのクラブの代表者だった伝手で午後のパーティに出演できた。

★1月24日、クォーリーメンは近所に住んでいるからという理由で、さらに遅いクリスマスパーティに呼び出され、スキッフル・ナンバーを10分間演奏した。場所はウールトン・ヴィレッジ・クラブ。

★この頃、地元の映画館の責任者が上映の合間の演奏をクォーリーメンに任せるかも、というチャンスが巡ってきた。条件としてブレスコットでのステージが上手くいけば、というもの。せっかくのチャンスだったが、ドラムのコリン・ハントンは泥酔していて演奏はめちゃめちゃに。コリンと他の3人は大喧嘩して、コリンはクォーリーメンを抜けてしまった。

★この時期クォーリーメンは消滅の危機にあり、ジョージはレス・スチュアート・カルテットなどのほかのバンドで演奏をするようになっていた。

★8月29日、モナ・ベスト夫人は所有するビクトリア様式の建物の広い地下室を改築して、ティーンエイジャーのためのクラブ、カスバ・コーヒー・クラブをオープンした。この日はオープニング・ナイトが開催されクォーリーメンが出演した。

★クォーリーメンが出演出来るようになったいきさつ。ジョージがこの時期に加入していたバンドであるレス・スチュアート・カルテットが本来出演することになっていたのだが、スチュアートとベースのケン・ブラウンがオープニングの日に喧嘩をしてスチュアートが出て行ってしまった。困ったブラウンが誰か助っ人で演奏してくれる仲間はいないか?とジョージに相談。ジョンとポールに連絡してクォーリーメンとして演奏。解散寸前からクォーリーメンは復活した。

★ケン・ブラウンはここで正式にクォーリーメンのメンバーとなった。

★9月5,12,19,26日、10月3,10日とカスバ・コーヒー・クラブに出演。

★ケン・ブラウンは10月10日にひどい風邪を引き、まともに演奏できなかった。他のメンバーとケンカになりバンドをやめた。クォーリーメン在籍期間は6週間だった。

★このケンカの原因は、カスバのオーナーのモナ・ベストが風邪で出演しなかったブラウンにバンドの演奏報酬の人数割り分を渡して、これに納得できなかったポールの怒りが発端。

★10月18日、2年前に出場して落選したキャロル・リーヴィス主催のオーディションに再挑戦。ジョン、ポール、ジョージの3人だけになったクォーリーメンはこのオーディションのためだけに「ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグス」にバンド名を変えた。

★10月26~31日、キャロル・リーヴィス主催のオーディションの地区大会の決勝が1週間にわたって、リヴァプールのエンパイア・シアターで行われた。ジョニー・アンド・ザ・ムーンドッグスは正確な日付は不明ながら少なくとも2日間出演して、優勝は逃すもののマンチェスターでの北西部最終決戦への出場権は獲得する。

★11月15日、リーヴィス主催のテレビ・タレント発掘オーディションの北西部最終決戦がマンチェスターのヒッポロドーム・シアターで行われる。このコンテストの優勝者は最後に各出演者がもう一度ステージに上がったときに、観客からどれだけ多くの拍手がもらえるかによって決まることになっていた。優勝者はテレビ出演が約束されていた。優勝者の決定は夜遅く行われることになっていたため、まったくお金を持っていなかったジョン、ポール、ジョージは外泊する余裕は無く、名声を得るチャンスをあきらめた。

★2007年、7月6日。リヴァプールのウールトン教会でジョンとポールが出会ってから50年となるのを記念してイベントが開かれた。そのイベントにポール、リンゴ、ヨーコ、エリザベス女王からメッセージが届いた。

★ポール、、、「その日は友人のアイヴァンがボクをウールトンの教会の祭りにジョンのライヴを観るために連れて行き、その日の夕方ジョンと会ったという、ボクの人生でとても重要な1日でした。このとても特別な日を一緒に祝ってくれるみなさまに感謝します。」

★リンゴ、、、「クオリーメン記念日のパーティーにいるみなさん、こんにちは。ジョンとポールの記念すべき出会いを祝っているみなさんに加わることが出来てとてもうれしいです。素晴らしい日を、ピース&ラヴ。」

★ヨーコ、、、「50年前の今日、ジョンとポールが出会ったとき、それは彼らの人生を変えただけでなく、私たちの世界も変えました。本当に重要な日です。」

★エリザベス女王、、、「ビートルズ結成のもととなったジョン・レノンとポール・マッカートニーの出会い50周年を祝うこの機会に心のこもったメッセージを送ってくれたここに集まったすべての人に、心より感謝を申し上げます。私はこのメッセージを大変うれしく受け取りました。そして、私はこの非常に喜ばしく輝かしい出来事を祝うすべてのみなさまのご多幸をお祈りします。」

【アマチュアからプロへ】

★1960年1月、ジョンのアート・カレッジの親友であるスチュアート・サトクリフがクオリーメンに参加する。

★1960年4月23,24日、学校のイースター休暇を利用して、ジョンとポールはイギリス南部のポールの従兄弟ペットの家に泊まった。ペットの夫マイクは仕事を辞めパブの経営者になったばかり。滞在中、お店を手伝ってくれたお礼にとマイクはジョンとポールにパブで演奏する機会を与えてくれた。「ナーク・ツインズ」という名前でアコースティックギターでマイクなしで演奏した。翌日もリヴァプールへの長旅の前の正午から2時間、この店で最後の演奏を行う。わずか2日間の「ナーク・ツインズ」だった。

★この頃、ドラマー不在ということで出演依頼がなかった。マネジャーのアラン・ウィリアムズはジャカランダ・コーヒー・バーの女子トイレの内装を変えたいときだけだったという。

★1960年5月5日頃、アラン・ウィリアムズはブライアン・キャサーという男からトミー・ムーアというドラマーを紹介された。ビータルズのメンバーよりかなり年上だったが、ドラマーには変わりないということで歓迎されビータルズのドラマーとなった。

★1960年5月、イギリスでトップ・クラスだったプロモーターのラリー・パーンズがリヴァプールで自らの抱える歌手のパッケージ・ツアーを開催した際、マージー・サイドのロックンロール・バンドの気風に感激したパーンズはショーの後にジャカランダにウィリアムズを訪ね、自分の抱えるシンガー全員のツアーでのバックバンドをいくつか探していることを打ち明ける。

★その中でも一週間後に全国ツアーを控えるビリー・フューリーには今すぐにでもバンドが必要で、リヴァプールで有望なバンドをいくつかオーディションをした。

★5月10日のオーディションにシルヴァー・ビートルズも参加したが、出番がきてもドラマーのトミー・ムーアはドラム・セットの調達に手間取り現れなかった。しかたなく同じオーディションを受けに来ていたキャス・アンド・カサノヴァズのドラマー、ジョニー・ハッチンソンが代理を務めた。

★一応オーディションには合格の方向に動いたものの、後ろを向いて演奏をするスチュのつたないベースだけがネックとなり、ラリー・パーンズはツアー同行をエサにサトクリフをやめさせるように持ちかけたが、あっさり断られた。

★結局、ビリー・フューリーのバックバンドは決まらなかったものの、少し格が落ちるシンガーのジョニー・ジェントルのスコットランド・ツアーのバックバンドにシルヴァー・ビートルズが真っ先に選ばれた。

★5月14日、リヴァプールのレイソム・ホールでのステージ。バンド名をシルヴァー・ビートルズにしてからの初めてのステージだったが、この日だけはなぜか「シルヴァー・ビーツ(Silver Beats)」と名乗った。

★この日の演奏はリヴァプール北部に点在するみすぼらしいホールなどでダンスパーティを手がけていたプロモーターのブライアン・ケリーのオーディションも兼ねていた。オーディションに合格したシルヴァー・ビートルズは翌週の21日のパーティにブッキングされ、告知のポスターにもバンド名が載った。

★しかし、数日後にジョニー・ジェントルとのスコットランド・ツアーが決定し、そちらのほうに気持ちが動いたシルヴァー・ビートルズはケリーに連絡せずすっぽかした結果、ブライアン・ケリーは常連客の前で面目丸つぶれとなった。

★5月20日、ジョニー・ジェントルのバックバンドとしてスコットランド・ツアーへ。

★ジョニー・ジェントルは大工見習いだった20歳のリヴァプール出身のシンガー。シルヴァー・ビートルズへの報酬はひとりあたり週給18ポンド(当時のレートで約1万8200円)。経費の一部も支払われる約束だった。電気工の仕事をしていたジョージ、そしてドラムのトミー・ムーアは大急ぎで欠勤届を出し、ポールは気分転換してくれば次の大学入試資格検定が上手くいくからと父親ジムを説得し、ジョンとスチュは学校をさぼることになった。

【スコットランド・ツアー】

★シルヴァー・ビートルズのメンバーにとって初めてのツアー。メンバーのうち3人は芸名をつけることにした。ポールは「ポール・ラモーン」、ジョージはあこがれのカール・パーキンスから名前を取り「カール・ハリスン」、スチュはロシアの芸術家ニコラ・ド・スタールにちなんで「スチュアート・ド・スタール」というわけで、富と名声を得て、女の子に追いかけられることを夢見て、シルヴァー・ビートルズのメンバーはリヴァプールのライムストリート駅からアロア行きの列車に乗り込んだ。

★ツアーの日程。5月20日、クラックマンナンシャーのアロマ・タウン・ホール、5月21日、インヴァネスのノーザン・ミーティング・ボールルーム、5月23日、アバディーンのダブリンブル・ホール、5月25日、モレイシャーのタウン・ホール、5月27日、ネアンズのリーガル・ボールルーム、5月28日、アバディーンのレスキュー・ホール。

★プロモーターのブライアン・ケリーがブッキングしてくれたせっかくのステージを蹴ってまで参加したこのスコットランド・ツアーはかなりずさんで屈辱的な内容だった。180キロ以内の距離で6つの町を訪れることになっていたが、パーンズと地元の手配師で養鶏場経営者のダンカン・マッキノンは移動のことなど考えずに日程を組んだために、ハイランズ地方の険しい道を不必要に行ったり来たりさせられて、結局480キロも移動させられることになった。

★また疲れて休憩したいと言った運転手のゲリー・スコットに代わりジョニー・ジェントルがバンの運転をしていたとき、飲酒していたジェントルは停車していたワゴンに追突。ワゴンの老夫婦は重傷を負いジェントルは行政処分を受けた。飛んできたギターをもろに顔面に受けたトミー・ムーアは前歯が数本折れて脳震盪を起こして病院へ運ばれた。5月23日にステージが予定されていたダブリンブル・ホールのオーナーは病院へ駆けつけ、ベッドから重傷のムーアを引きずり出し、ステージに上がりドラムを叩く義務があるはずだと怒鳴りつけた。

★徐々にツアーは収拾がつかなくなってきて、狭いバンの中でみんながいらいらしていた。とくに辛らつなジョンのイヤミの的になっていたムーアとスチュはひどくヒステリックになっていた。持ち金も底をついてきて食事の回数も減り、26日のステージのあとは宿泊していたロイヤル・ステーション・ホテルを金を払わずに抜け出していった。

★21日のノーザン・ミーティング・ボールルームのステージは、地元の年配者が昔のダンス音楽をバックに踊るという場違いなステージだった。後にジョージは皮肉たっぷりにコメントした。「当時の若者は荒れていて、縄張り争いなどであちこちでしょっちゅう喧嘩騒ぎが起きていた。そんな中で、ああいった平和な会場で演奏出来て本当に運が良かったよ。」

★5月30日にアラン・ウィリアムズが経営するジャカランダ・コーヒー・クラブで初めて演奏する。レギュラー・バンドの「ロイヤル・カリビアン・スティール・バンド」がオフをとる月曜日の夜のみで、ギャラはコカコーラとビーンズとトーストという現物支給で出演することとなった。

★6月2日、ウィラルにあるクラブ「インスティチュート」に初出演。この日も含めて6週連続で木曜日の夜に出演した。プロモーターのレス・ドッドが経営するホールでのステージで、ギャラはひとり2ポンドという初めてのプロとしての契約だった。ただし仲介料としてアラン・ウィリアムズに1ポンド支払っている。

★6月4日、レス・ドッドが経営するもう一軒のクラブ「グロブナー・ボールルーム」でのステージ。インスティチュートもグロブナー・ボールルームも暴力沙汰が多いことで有名なクラブで、地元の若者はけんかを楽しむ場所と考えていて、ある日のインスティチュートでのシルヴァー・ビートルズの演奏中にひとりの若者が蹴りまわされて死にかける事件があった。

★6月6日、グロブナー・ボールルームで「スペシャル・マンデー・ジャイブ・アンド・ロック・セッション」というイベントが開かれ、ジェリー・アンド・ペースメイカーズと初競演した。

★6月9日、ウィラルの「インスティチュート」でステージ。

★6月10日、ドラムのトミー・ムーアはシルヴァー・ビートルズを脱退する。知らせを聞いたメンバーがムーアの自宅へ行ったがムーアは不在。訪ねてきていたガールフレンドに「もうトミーはあなたたちとは付き合わない、帰ってちょうだい!」とののしられた。ちゃんとした仕事でもっと稼げるのに、バンド活動で時間を無駄にしているとガールフレンドに非難され、さらにジョンの強烈なイヤミにムーアは愛想をつかせていたという。

★6月11日、またもやドラマー不在になってしまったシルヴァー・ビートルズだが、契約があるためこの日もグロブナー・ボールルームのステージに立った。ジョンは機転を利かして誰か代わりにドラムを叩きたい人はいないか?と客席に冗談っぽく聞いたが、この冗談が災いをもたらした。地元の不良少年のボスであるロニーという男がステージに上がり、ムーアが分割払いで購入した大切なドラムセットに腰を下ろし、バンドメンバーに脅しを掛けようとした。あわてたジョンが休憩時間に見つからないようにアランに電話を掛け、駆けつけたアランがドラムセットとメンバーを救い出した。

★6月13日、ジャカランダ・コーヒー・バーで、シルヴァー・ビートルズのメンバーとしてムーアの最後のステージ。

★6月16日、23日、30日、インスティチュートでステージ。

★6月18日、25日、グロブナー・ボールルームでステージ。

★7月2日、この日のグロブナー・ボールルームのステージにはジョニー・ジェントルが不意に姿を見せて、大変な盛り上がりになった。スコットランド・ツアーで一緒だったシルヴァー・ビートルズのメンバーに会いたくて父親と一緒にジャカランダ・コーヒー・バーを訪れ、グロブナーに出演していることを知り驚かせにやってきた。久しぶりに再開したメンバーは大喜びした。ジェントルもステージに上がり数曲歌っている。

★7月7日、インスティチュートでステージ。

★7月9日、19日、23日はグロブナー・ボールルームでのステージ。

★7月30日、グロブナー・ボールルームでの最後のステージ。営業時間中の騒動と暴力沙汰は手のつけられないほどひどくなってきており、地元住民が我慢の限界に達し、ホールの所有者であるワラシー・コーポレーションに苦情を申し入れた結果、この日を持ってシルヴァー・ビートルズの出演は中止となった。

★この頃シルヴァー・ビートルズにはまったく出演依頼がなく、ストリップ小屋のショーなどのバック演奏などをして食いつないでいた。

★グロブナー・ボールルームでのステージのうち、最後の3回はトミー・ムーアに続く新しいドラマーが参加している。額縁の製作や修繕の仕事をしていたノーマン・チャップマンという男。趣味のドラムの練習をジャカランダの向かいにある事務所でやっていた音をシルヴァー・ビートルズのメンバーが気付いてバンドに誘った。しかし、すぐに徴兵となりシルヴァー・ビートルズのメンバーとしてのキャリアを終えた。

【アラン・ウィリアムズ】

★1931年生まれでリヴァプール中心部のスレイター・ストリート23番地にジャカランダという小さなコーヒー・バーを経営していた。

★クオリーメンのメンバーは昼食時と夕方によく店を訪れてエスプレッソ・コーヒー一杯で、最低2時間は粘っていたという。

★アランは1960年5月から翌61年4月までグループの活動を掌握し、出演交渉やマネジャーらしきことをやっていた。

【ビートルズ命名】

★ビートルズという名前が考案されることについて影響を与えたある説がある。スチュアート・サトクリフが「他のバンドを総叩きにする」という意味で「Beat-all」→「Beatals」というスペルまで考えていたという。

★1960年4月、クオリーメンはバンド名を「ビータルズ(Beatals)」に変えていた。スチュアート・サトクリフのアイデアとバディ・ホリー・アンド・ザ・クリケッツにちなんだネーミングであった。

★ビータルズに新ドラマーのトミー・ムーアを紹介したブライアン・キャサーに「ビータルズというバンド名は馬鹿みたいだ。」と指摘し、さらにはロング・ジョン・アンド・シルヴァー・ビートルズというグループ名はどうだと提案。ジョンはロング・ジョンと呼ばれるのを嫌がったが、バンド名についてはそっちのほうがいいのならと、とりあえずシルヴァー・ビートルズ(Silver Beetles)にすることになった。

★5月14日、リヴァプールのレイソム・ホールでのステージ。バンド名をシルヴァー・ビートルズにしてからの初めてのステージだったが、この日だけはなぜか「シルヴァー・ビーツ(Silver Beats)」と名乗った。

★一時期、マーロン・ブランド主演の映画「乱暴者」(1953年公開)で、ブランドがリーダー役を演じた暴走族の名前が「ビートルズ」であり、ここからバンド名がとられたという説が広まった。

【第1回 ハンブルグ巡業 1960年8月17日~11月30日

★1960年6月下旬、ジャカランダの専属バンド、ロイヤル・カリビアン・スティール・バンドが西ドイツのハンブルグにあるクラブに引き抜かれた。夜逃げのように去ったにもかかわらず、アラン・ウィリアムズに「ハンブルグでは手っ取り早く金を稼げるし、悪名高いレーパーバーンでは早く女も手に入り楽しくてしょうがない。ここで演奏を出来そうな連中を連れて見に来ないか?」といった内容の手紙が届く。儲け話にはすぐに飛びつくウィリアムズはその誘いに乗り、地元のビジネスマンを連れてハンブルグは向かった。

★ウィリアムズはハンブルグに出発する前にシルヴァー・ビートルズをはじめとするリヴァプールのバンド数組の演奏をテープに録音して、ハンブルグのカイザーケラーというクラブのオーナー、ブルーノ・コシュミダーに売り込むために聞かせたのだが、なぜかテープの音が消えてしまっており訳の分からない雑音しか流れてこなかった。売り込みに失敗したウィリアムズは意気消沈してリヴァプールに戻った。

★以前、ジョニー・ジェントルのバック・バンドとしてシルヴァー・ビートルズが参加したスコットランド・ツアーをプロモートしたロンドンの興行師ラリー・パーンズがウィリアムズに別の歌手のバックバンドを都合してくれないかと頼みに来た。そこで選ばれたテリー・アンド・シニアーズはこの話に乗り、それまでの仕事をキャンセルした。しかしパーンズが申し訳ないがキャンセルすると言ってきた。怒ったバンドのメンバー、なかでも大柄なハウイー・ケイシー(後にウィングスのツアーに参加した)というサックス奏者はパーンズをひどい目に合わせてやると脅した。

★困ったウィリアムズはバンドのメンバーをロンドンのソーホー地区にあるトゥー・アイズ・コーヒー・バーに連れて行きオーナーのトミー・リトルウッドに相談した。トミーはウィリアムズの友人だった。トミーはよろこんでテリー・アンド・シニアーズを受け入れると約束した。ところが偶然にもこのコーヒーバーにあのブルーノ・コシュミダーが来ていた。

★コシュミダーは数週間前に西ドイツまでやって来て自分のバンドは世界一だと自慢し、ほとんど音が消えていたわけの分からぬテープを聞かせて帰っていったことに非常に興味を持っていた。だが、ウィリアムズはもう自分のところへはやって来ないだろうと思い、ならば自らがイギリスへ渡り自分の目でどんなすごいバンドがいるのかを確かめるためにロンドンへ来ていたのだった。

★このときのコシュミダーはデリー・アンド・シニアーズに興味を示し、1日一人当たり30マルクの報酬で出演契約を結んだ。7月31日にはハンブルグのステージに立っている。そして先にハンブルグに来ていたロイヤル・カリビアン・スティール・バンドと同様に、デニー・アンド・シニアーズからも興奮した手紙が届いた。

★すぐにコシュミダーからウィリアムズのもとに手紙が届いた。カイザーケラーの店が大繁盛なので、近くのインドラというストリップ劇場をつぶして新しいライブハウスを作る。次のバンドを紹介してくれという内容だった。ウィリアムズは当然のごとく承諾したが、手持ちの所属バンドは既に予定が詰まっていたか、話に乗ってこないかで送り込むバンドが決まらなかった。仕方なくウィリアムズは「自分たちでドラマーを見つけてくる」という条件でシルヴァー・ビートルズを派遣することにした。

★ウィリアムズはデリー・アンド・シニアーズに近いうちにシルヴァー・ビートルズを行かせるからよろしく頼むという丁寧な手紙を書いたが、ハウイー・ケイシーからは「あんなゴミ・バンドに来てもらったらみんなが迷惑するだけだ」という強い抗議の手紙がバンド・メンバー全員の署名入りで届いた。

★8月8日に地元紙リヴァプール・エコー誌にドラマーの求職広告が載り、慢性的なドラマー不在に苦しんでいたメンバーはこのドラマーに接触を試みる。このドラマー宛にバンド加入を誘うポールの手紙が見つかっており、8月12日付けの手紙には、オーディションを実施したいこと、ハンブルグでのギャラ、こちらへの連絡先などが記されている。実際にオーディションが行われたのかどうかは不明である。

★ポール、、、「いちど28時間も食事が出来なかったときがあった。道路脇で缶のスパゲッティを調理したことがある。」

【9月8日更新】★ポール、、、「当時のボクたちはリヴァプールで数回のギグをやっただけの駆け出しでドイツにやってきた若造だった。クラブのマネージャーは「とにかくステージを成功させろ」と言った。それがボクらが受けた唯一の指示だ。空っぽのクラブに何人かの学生が入ってきて、彼らは最初にビールの値段を見て「うわ!高い」って思うんだよね。だから僕たちは、彼らがお店に留まってくれるように一生懸命やらないといけなかった。」

★ジョージ、、、「ボクらはデビューする前からハンブルグに行っていて、そこで自分達のスタイルを見つけたんだと思う。自分達のスタイルを開発したのは、ある人に「みんなにショーを見せるんだ」と言われたからさ。彼は毎晩マックシャウ(Make It Show)と叫んでいた。ボクらはその通りにした。リヴァプールではみんなシャドウズみたいなことをやっていたけど、ボクらはマックシャウしたよ。ジョンはゴリラみたいに踊っていたし、ボクらも互いに頭をぶつけんばかりの勢いだった。とにかくウケたね。

★最初に寝泊りしていた映画館「バンビ・キノ」での部屋割りはピートによるとピートとポールが同じ部屋、そして別の部屋にジョン、ジョージ、スチュが寝ていた。しかし汚くドアもない部屋と言えないような代物で、当時のマネージャーのアラン・ウィリアムズに「もっとマシな部屋に変えろ」と文句を言ったものの、最後までそのままだった。

★ピートのコメント、、、「アランはアイデアマンだったが、マネージャーとしてはダメだった。2度目のハンブルグではボクがバンドのブッキングをしていた。」

★最初はリヴァプールでのステージと同じようにやっていたらしいが、インドラ・クラブでデリー・ウィルキンズ&シニアーズというバンドがかなり激しいステージを披露していた。インドラ・クラブのオーナーであるブルーノ・コシュミダーが「彼らと同じようにやればウケる」とアドバイスして、その後はクレイジーなステージを繰り広げた。

★ジョンがピアノの上で演奏したり、便器の台座を首に掛けたり、パンツを下ろしお尻を見せながら演奏した。カイザー・ケラーではジョンは海パン1枚で演奏したこともある。

★宿舎代わりの映画館「バンビ・キノ」に荷物を取りに行った際、ボヤ騒ぎを起こしてポールとピートは警察に逮捕されている。真っ暗だったのでタペストリー(コンドームという説あり)に火を付け明かり代わりにしていたことが原因。ポールとピートは手錠を掛けられ牢屋へ。その後パトカーで空港まで連れて行かれ強制送還になった。

★イギリスに帰国後、ポールは父親ジムに諭されて地元のコイル工場「マッシー&コギンズ」に庭掃除として就職した。音楽で生計を立てることに挫折したポールは後にビートルズ再始動の際、「まともな仕事で身を立てる」ことにこだわり、首を縦に振らなかったが、ジョンに叱責されビートルズに復帰している。

★1960年10月15日、ロリー・ストーム&ハリケーンズのベーシストのウォルター・エイモンド(芸名ルー・ウォルターズ)と当時同バンドのドラマーのリンゴといっしょにジョン、ポール、ジョージはレコーディングしている。場所はハンブルグのセントラル・ステーションの裏、キルヒェナレー57番地のアスクティックという小さなスタジオ。当時のマネジャーだったアラン・ウィリアムズの希望でこのメンバーでレコーディングされた。ピートが参加しなかったのは、この時レコーディングされた「Summertime」「Fever」という曲をピートが知らなかったためである。78回転の片面に収録されたのは「Summertime」で、もう片面はハンドバッグと靴の宣伝メッセージだった。全部で9枚作られたが、1枚だけ現存している。

★ステージ衣装はピートによると、最初の巡業では革ジャン、ジーンズ、黒のTシャツ、カウボーイ・ブーツ。2度目は加えて革のパンツ、3度目は革ジャンから長いジャケットに変わった。

★ジョンのコメント、、、「オレたちの最高の演奏は録音されていない。」

★ジョンのコメント、、、「オレはリヴァプールで生まれたが、ハンブルグに育てられた。」

【キャバーン時代】

★キャバーン・クラブで演奏するようになったきっかけはピートの母親モナ・ベストが、キャバーンのマネージャーのレイ・マクフォールに「ぜひキャバーンでビートルズを演奏させてほしい」と電話して頼んだことである。

★ピートによると、カバー曲はチャック・ベリー、リトル・リチャード、ジーン・ヴィンセント、エヴァリー・ブラザーズなどのアメリカのR&Rを演奏し、ラジオを聴いたり港町であったリヴァプールの船員たちがアメリカより持ち帰ったレコードを聴いたりして覚えた。またジョンとポールはすでにオリジナル曲を書いていて、1961年の終わりごろからLike Dreamers Do、Love Of the Lovedなどを演奏していた。

★ピートによると、ランチタイム・セッションでは30分のステージを2回やったという。これはリヴァプールでは昼休みを通常の12時から1時まで取るシフトと1時から2時まで取るシフトがあったため、それに合わせてのものだったという。また12時30分から1時30分までの1時間のステージを1回というパターンもあったらしい。ポールの父親のジムがよく来ていたとピートは証言している。

【スチュ脱退、ポールがベース担当に】

【10月8日更新】★誰がベースを担当するのかという話になって、ジョンとジョージがポールに押し付けたというのが定説だが、ジョージによるとポールは別に嫌がってはいなかったと後に語っている。

【10月8日更新】★ジョージ、、、「トニー・シェリダンのバックでベースを弾いていたコリン・ミランダーがヘフナーのヴァイオリン・ベースを使用していたんだ。ポールはコリンと同じものを買いに行ったよ。」

【ブライアン・エプスタイン】

★1961年10月28日(土)の午後3時頃、ハイトン在住のレイモンド・ジョーンズという18歳の少年がホワイトチャペルにあるレコード店NEMSを訪ねた。店長であったブライアン・エプスタインに「ビートルズというバンドの「マイ・ボニー」というレコードは置いてあるのか?」と問い合わせた。ブライアンはバンドのこともレコードのことも分からずに途方にくれたが、とりあえず調べてみて可能なら取り寄せると、レイモンド少年に約束した。翌週には別の女の子2人がNEMSを訪れて同様の質問をした。業界紙「レコード・リテイラー」のリストにも載っていないレコードについてなぜ多くの問い合わせがくるのか興味を抱いたブライアンは調べることを決心した。

★ブライアンによると、レコード専門輸入業者に聞いても分からず、半ばあきらめかけていたとき、リヴァプールの音楽雑誌「マージー・ビート」編集長のビル・ハリーに何気なくこのレコードの話しをしたところ、ビートルズは実はリヴァプールのバンドで、さらにブライアンのレコード店から100メートルも離れていない「キャヴァーン・クラブ」でレギュラーとして出演していると聞かされ、とても驚いた。

★後年、ビートルズのアシスタントをしていたアリステア・テイラーが「レイモンド・ジョーンズは実在しない」と発言して、フィクション説が有力となったが、雑誌「MOJO」誌上で本人が「私は実在する」と述べた。彼は現在スペインのムルシアとい街に住んでいる。彼によるとブライアンの記憶とは少し違っていて、ブライアンが「ビートルズはどこで演奏をしているんだい?」と聞き、「この店のすぐ近くにあるキャヴァーンですよ、最高のバンドだから観に行ったほうがいいですよ。」と答えると、「検討してみるよ」とブライアンは語ったという。

【10月8日更新】★レイモンド・ジョーンズはキャヴァ―ンでビートルズのステージを見たわけではなく、DJのボブ・ウーラーがキャヴァ―ンでかけていた「My Bonny」を聴いたからだということである。ちなみにこのレコードはスチュワート・サトクリフがドイツから送ってきたものである。

【10月8日更新】★ブライアンとビートルズの最初の接点については全く別の説がある。スチュの親友であったビル・ハリーが創刊した地元音楽雑誌「マージー・ビート」を店頭に置いてもらおうとネムズを訪ねた。ブライアンは気前よく1ダースを引き受けてみたのであるが、あっという間に売り切れてさらに1ダース注文した。これも瞬く間に売り切れてしまったのを見たブライアンは、第2号は12ダースもの大量オーダーをした。この7月20日発行の第2号はビートルズがハンブルグでポリドールとレコーディング契約をしたことが1面で写真付きで大きく報じられており、ブライアンがこれに気が付かなかったとは考えられないのである。さらには8月13日発行の第3号からはブライアンのコラムの連載が始まっている。レイモンドがネムズにやってきて「My Bonny」のレコードをブライアンに訪ねたとされる日の2か月以上前のことである。

★アリステア・テイラーによると、ビートルズのステージを初めてみたブライアンは「正直なところ、ひどいバンドだ。うるさいだけだ。でも、どこか惹かれるところがあるよ。」と感想を語った。

★ブライアン・エプスタインがついにビートルズと契約。その契約締結当日に、ポールだけがシャワーを浴びていて大きく遅刻して、ブライアンはかなり怒っていたという。

 

【マッシュルーム・カット】

★一般にはアストリッド・キルヒヘルが考案したとされていたが、アストリッド自らが「ドイツで昔からあった髪型」と否定している。ただ、この髪型をビートルズに教えたのはアストリッドで、まずスチュに自らカットし、そしてジョージが真似た。リーゼントにこだわるジョンは最後まで抵抗していた。

【デッカ・オーディション】

★大手のレコード会社でのオーディションということでメンバー全員がかなり緊張していた。オーディションは30分のセットを2回行なった。

★ブライアン・エプスタインがオーディション中にジョンにいろいろとアドバイスしていたが、「音楽のことを何も知らないくせにつべこべ言うな!」とジョンは激怒したという。

★前日が大晦日だったことで、みんなが飲んで大騒ぎをしていたためオーディションに30分遅刻した。ブライアンは交通事故にでも遭ったのかと心配して、かなり怒っていたという。

★オーディションに落ちたビートルズ。ブライアンにオーディションを担当したデッカ・レコードのディック・ロウは「バンドの時代は終わりです。特にギタリストのいる4人組みなんて時代遅れです。」と告げた。

★この時の録音テープを後年クラウス・フォアマンが聴いている。「いつものワイルドなビートルズではない。」と憤慨していたという。

★ジョンのコメント、、、「コピー・テープは持っているんだけど、テープそのものが欲しいな。あれはいいよ。「To Know Her Is To Love Her 」とかいろいろ歌っているんだ。ほとんどが既成曲だけど自分たちで作った曲もやった。かなりいいよ。あのトニー・シェリダンのよりもよっぽどマシさ。オレがテレビに出て誰かがそれを録音して一週間しないうちにテープが店頭に並ぶ。ちょっとうれしい気もするんだ。ビジネスに反することだからいけないことだとは分かっているんだけどね。デッカのテープのコピーを作って海賊盤業者に送ってやったんだ。実際にリリースされてもオレは構わないよ。(1973年)

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