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★1963年2月15日付けのNME誌に掲載されたジョンのプロフィール、、、名前「ジョン・ウィンストン・レノン」、誕生日「1940年10月9日」、出身地「リヴァプール」、身長「180cm」、体重「72kg」、目の色「ブラウン」、髪の色「ブラウン」、兄弟「なし」、演奏できる楽器「リズム・ギター、ハーモニカ、パーカッション、ピアノ」、学歴「クオリー・バンク・グラマー、リヴァプール・カレッジ・オブ・アート」、ショービジネス入りした年齢「20歳」、前の職業「画学生」、趣味「作詞作曲と演奏、女の子、絵を描くこと、テレビ、人に会うこと」、好きなシンガー「シュレルズ、ミラクルズ、チャック・ジャクソン、ベン・E・キング」、好きな俳優「ロバート・ミッチャム、ピーター・セラーズ」、好きな女優「ジュリエット・グレコ、ソフィア・ローレン」、好きな食べ物「カレー、ゼリー」、好きな飲み物「ウィスキー、紅茶」、好きな服「黒っぽい服装」、好きなバンド「クインシー・ジョーンズ」、好きな演奏家「ルーサー・ディクソン」、好きなもの「金髪、皮」、嫌いなもの「頭の悪い奴」、音楽の好み「R&B,ゴスペル」、抱負「ミュージカルを書くこと」、願望「お金持ちの有名人になりたい」

★ローリング・ストーン誌の表紙を飾った最後の写真として有名な「裸のジョンが黒のセーターを着たヨーコに抱きつく図」。この写真の撮影時カメラマンのアニー・リーボビッツは表紙に使うことをジョンと約束した。撮影後数時間でジョンは射殺された。ローリング・ストーン誌はジョンの単独写真を表紙に使うことにしたが、アニーはジョンとの約束があるのでと猛抗議。編集長のヤン・ウェナーが折れて「裸のジョンが黒のセーターを着たヨーコに抱きつく図」が表紙になった。

【キリスト発言】

★1972年にテレビ番組で布教活動を行なう伝道師オーラル・ロバーツ氏と会見したときに、ジョンはドラッグ依存とキリスト教はどのように自分を助けるのかを聞いたという。ロバーツ氏は「キリストよりも影響力のある人間やグループがいるという考えを、あなたがついに改めたことを神に感謝する。キリストこそが真実だ。」と書いた手紙を送った。

【シュレルズ・ファン・クラブ】

★ジョンはシュレルズのファン・クラブに入っていた。入った時期はデビュー前という説と1964年という説もある。

★1964年6月号の「16マガジン」に好きなシンガーとして「シュレルズ、リトル・リチャード・ベン・E・キング、チャック・ベリーなど」とシュレルズは一番に挙げている。1963年2月15日付けのNME誌でも好きなシンガーをいくつか挙げ、真っ先にシュレルズの名前を出している。

【ケンウッド】

★ウェイブリッジにあるチューダー朝様式の家。27部屋もある豪邸で1964年7月から1968年夏まで住んでいた。

★敷地内のプールの内側には、ジョンがデザインした目玉模様のモザイク画が貼り付けられていた。

★2階にはホーム・スタジオがあった。ここは本格的なレコーディングをするという用途ではなく、ジョンの思いついたアイデアを手早く記録したり、デモ・テープを作成する、あるいは音楽的な実験をする場という色合いが強かった。

★とはいえ、設置してあるレコーディング機材等は本格的で、判明しているだけでオープン・リール・テープデッキが7台、マイクやマイクスタンドも多数。メロトロンなどの高額な電子楽器、アップライト・ピアノ、ファルフィッサ・コンボ・コンパクトとよばれるオルガンが設置されていた。

【ティッテンハーストの邸宅】

★1969年の夏に購入。敷地の広さはサッカー場がおよそ40面もスッポリ入る70エーカーという広大なもので、ジョージ王朝時代の大邸宅である。

★映画「Imagine」で確認できるとおり、敷地内には手漕ぎボートを浮かべた池やバスケット・ボール・コート、日本庭園には和風の別館が建てられていた。

★8トラックの録音設備を持つスタジオはキッチンに隣接してあることは、映画「Imagine」で確認できる。すぐに食事が出来たり、突然アイデアが浮かんだ時にさっと作業が出来るということで、ジョンはとても便利で使い勝手が良いと語っていた。

【ポール・マッカートニー】

★「ジョンと一緒に曲を書く作業がとてもよかったから、エルビス・コステロなど、長年パートナーを探し求めていた。それはすばらしい経験だったけど、誰もジョンの代わりにはなれないだろう。何年もボクは誰か他にも作曲パートナーがいるだろうと思っていたんだけどね。忘れてならないのは、ボクとジョンは10代の頃に知り合ったということだ。ボクたちは同じレコードを聴き、同じ服を着た。同じ種類の人たちを尊敬し、同じ趣味を持った。これらがすべてのことを形作ったんだ。ジョンとボクは双子みたいなものだった。そんな人を見つけるのは不可能に近い。ジョンの代わりの人はいないし、ジョンにとってもボクの代わりになる人なんていなかったと思う。ボクたち二人の個性が、それ以上の個性を生み出したんだ。」

★「一部の人によると、ジョンはイカれた人間だということになっている。でもそうじゃないことはボクは分っている。ビートルズはすごくマトモだったけど生意気だったんだ。ボクらの中でのジョークがあってね、解散するときにはウェンブリーでコンサートやって、ジョンが「ファック・ザ・クイーン」ってぶちかまそうぜっていうのがあった。(1975年)

★「今でも曲を書くときは「ジョンがこれを聴いたらどう思うか」を考えて曲を書く」

【ジョージ・ハリスン】

★「彼も髪を切らない。(1963年)」

【リンゴ・スター】

★「ジョンはいつも最先端の男だった。」

【ピート・ベスト】

★「ジョンは2面性を持っていた。短気で皮肉屋で、よくジョークを言っていた。しかしもう一面は優しくてとても愛情深かった。」

★「ジョンはイチゴ・ジャムが好きだった。」

★「真面目で、友達との約束はきちんと守る奴だった。」

【ジョージ・マーティン】

★(ジョンの「ジョージ・マーティンの作った曲というのを出してみろよ。聴いてみたいね。」という発言を受けて)、、、「くだらないといか言いようがない。どんな気持ちかと聞かれたら彼が気の毒に思えるかな。そういう点から見ると彼は明らかに分裂症だろう。でなければ本気じゃなかったと思う。本気で言ったのなら、そのときの彼はまともな精神状態であったはずがない。」

★上記マーティンの発言に対するジョンの反論。「複数の感情を持ったら精神分裂だなんて、ボクはそうは思わない。あなたはそう考えているらしいけど。ただしボクも「ジョージ・マーティンは実際あなた方にどんなことをしてくれたんですか?」と聞かれたときには、ひとつの言葉しか浮かばない。「今、彼がしていることと一緒さ」。」

★「アレンジについてジョンは雰囲気で伝える。色で伝えるというとわかりやすいかな。」

【アリステア・テイラー】

★「ビートルズ初期の頃、ジョンとポールは最も絆のかたい親友同士だった。いちばん誤解されていたのはジョンだと思うけど、彼はとてつもなく優しい男だった。」

【ヨーコ・オノ】

★「ジョンという人は自分だけのことだけではなく世界のことを考える人でした。今、彼が去った後もみなさんがそれをよくわかってくださって、彼の言葉や音楽をよく聴いてくださり、その中で彼の魂を汲んでくださって、一人ひとりが彼の魂というのを少しづつ持っていてくださっているのだと思います。それがだんだん育っていっている気がして、そういう意味でジョンはまだ私達と一緒にいるのではないかと思います。」

【少年時代のジョンの家】

★ジョンが少年時代をすごしたミミ伯母さんの家「メンディップス」はナショナル・トラストが管理している。

★管理人はウールトン出身の元教師のコリン・ホール氏。ホール氏はビートルズの大ファンでジョンとポールが初めて出会ったウールトン教会での催しの場にいたという。

【アルフレッド・レノン】

★ジョンの父親。1912年12月14日リヴァプール生まれ。1976年4月1日没。享年63歳。

★アルフレッドが船旅の途中にセントラル・パークへ行ったことをジョンに話しており、後にニューヨークへ居を移したジョンがセントラル・パークを散策中に「親父がここにいるような気がする」とヨーコに話している。

【ミミ伯母さん】

★ジョンがギターに夢中になっていた時に、ミミ伯母さんが掛けた言葉。「趣味としてギターを弾くのはいいけど、ジョン、ギターでは食べていけないのよ。」

★ジョンがどこかへ出かけてギターを弾くのをミミ伯母さんはとても嫌がっていたそうで、ジョンはこっそり家を抜け出し、ミミ伯母さんの就寝後にこっそり帰宅していたという。

★ミミ伯母さん、、、「(少年時代のジョンの思い出)ジョンは手から鉛筆を離しませんでした。いつも何か書いていました。紙を丸めて放り投げ、また書き始めるのです。そしてジョンは言っていました「ミミ、その紙は拾っておくべきだよ。なぜって、いつの日かボクが有名になったら値打ちが出るよ。」って。」

★1981年11月某日、リヴァプールで上演されている舞台「Lennon」について、本当のジョンとは正反対の描かれ方をしていると猛批判した。

★1981年12月8日、ITVテレビで初のテレビ出演。番組「デイ・バイ・デイ」でジョンについて語る。

【ジュリア・ベアード】

★父親違いのジョンの妹。1947年生まれ。

★ビートルズがロンドンのフィンズベリー・パーク・アストリアで公演したときに、ジュリアは観に行っている。

★ジュリア、、、「楽屋にはストーンズのメンバーがウロウロしていました。空席を見つけて座ったんですが、一瞬のうちに観客が押し寄せてきて、私はステージのそでに連れて行かれました。ジョンに「だから言っただろ」と叱られちゃいました。」

【ジャクリーヌ・ディキンズ】

★父親違いのジョンの妹。1949年生まれ。

【三つのRevolution】

★「Revolution」は2つバージョンがある。反体制グループは「俺は頭数に入れないでくれ」と言ったバージョンに気付いただけで去っていった。アルバムに入れたオリジナル・バージョンは「俺も入れてくれ」と加えた。確信が持てなかったから両方やったんだ。ただ、抽象的な、ミュージック・コンクレート、ループとか、人々が叫んでいる3つ目のバージョンもある。俺は音で革命の絵を描いているつもりだった。しかし、ほらね、俺は過ちを犯した。それは反革命だったという誤りだよ。シングルでリリースされたバージョンは「俺を頭数に入れないでくれ」と歌った。殺されたくなかったんだ。」

【アーサー・ヤノフのプライマル・セラピー】

★アーサー・ヤノフ、、、アメリカの心理学者で、幼い頃の心の痛みを、繰り返しさかのぼって、自身の体を使って感じるままに表現をし、抑制され続けていた心の痛みを取り除く「プライマル・セラピー」をつくりだした。

★ジョンがヤノフのことを知るきっかけはヤノフの著書「ザ・プライマリー・スクリーム、プライマル・セラピー、ザ・キュア・オブ・ニューロシス」。注文もしていないのに勝手にジョンの家に送られてきた。

★1970年4月1日、「性転換手術を受けるため」とうその情報を流して、ロンドンのヤノフのクリニックに入院して4週間にわたる治療を受ける。

★1970年4月18日、治療の一環としてシンシアとジュリアンに会うように勧められるも、ヨーコの過激な反対行動により再会できず。

★4週間の治療が終了した後、今度はロサンゼルスのヤノフのクリニックでの治療を勧められたため、ロサンゼルスに飛び拠点となる家を借りた。

★ジョンのコメント、、、「治療内容は、幼少時から自分の内部に蓄積されてきた苦しみを感じるということなんだ。一連の宗教的通念を消し去るために俺はこの治療を受ける必要があった。このセラピーは神に関するすべてのクソみたいなことと、おさらばすることを余儀なくさせた。人はみなあまりにも多くの苦しみを受け入れている。押し込めているがそれが消えることはない。愛の欠如は目に入り心に入り込んでくる。心を苦しみに向けると、苦しみは再び抑圧される代わりに、正しい通路を通る。「よし、これを乗り越えるぞ」と思えるようになるんだ。」

【ダコタ・ハウス】

★観光地化している側面もある。2010年にはダコタ・ハウスの住人たちがツアー・バスに苦情を申し立てている。申し立ての内容によると、バスから降りた観光客が歩道をふさいでしまい、住人が建物の中に入ることが出来ない。また複数のバスが交差点をふさいでしまっており、大きな事故につながる事故寸前の事例が多発しているとのこと。

★現在では、ダコタ・ハウスの周辺でのアイドリング運転について、高額の罰金が科せられることになっている。

★別名「ダコタ・アパート」とも呼ばれており、我々日本人の感覚では市井の集合住宅をイメージするがアメリカではそうではなく、アメリカのアパートメント・ハウスは日本でいう高級マンション。格式の高いアパートメントで、過去にはビリー・ジョエルやマドンナ、有名アスリートたちの入居などが断られている。ジョンとヨーコは複数階に数戸の部屋を借りていた。

【レコーディングについて】

★完全主義的なポールは、時に他のメンバーにギターの弾き方やドラムの叩き方を指示することが多々あるが、ジョンは自分自身ではそのやり方は好きではないしやりたくないと語っている。

★基本的に自分の作品をアレンジされることは嫌いだが、アレンジのアイデアの意見はしっかり聞き、取り入れることには抵抗はないと発言している。

【未確認飛行物体、宇宙人】

★1974年8月23日、午後9時。エディ・ゲルマーノのビルの屋上に素っ裸で立っていたジョンがUFOを目撃し、「ボクも一緒に連れて行ってくれ」と叫んだ。その後ジョンは数週間に渡ってUFO目撃談を語り主張し続けた。ジョン、、、「みんなはボクがついにイカレたと思ったようだ。本当に見たんだ。ボクだって信じられなかったよ。丸い形でね左から右へ飛んでいった。てっぺんが赤く光っていたよ。2分位してその物体はイースト・リバーのほうに消えた。国連ビルの向こう側だ。ボクは飲んじゃいなかった。これは神にかけて真実だ。」

★サイキックのユリ・ゲラー氏は、ジョンから宇宙人に遭遇したことを打ち明けられたと語った。それによると、1975年ジョンとヨーコが就寝中にサーチライトのような強力な光で照らされ、直後昆虫のような小さな生物がジョンに近づいてきたという。宇宙人から卵型の金属をもらったが、気味が悪いということでユリ・ゲラー氏に渡したという。

【生命保険】

★2000年にリバプールのある市営住宅のクローゼットの中から、ジョンの生命保険証書等の書類が20枚ほど見つかった。1965年に作成された書類の中には、保険金50万ポンド(当時のレートで約5億円)の保険証書、ジョンとポール名義で支払われた生命保険料3万5千ポンド(当時のレートで約3,500万円)の領収書、高血圧と診断された健康診断書、そしてジョンの死後に作成された死亡診断書などがあった。

【アルマ・コーガン】

★ビートルズがデビューする前から、イギリスの女性人歌手だったアルマ・コーガンとジョンは愛人関係にあったことを、元妻シンシアが明かしている。

★ジョンは表向きはアルマが歌っているような曲をバカにしていたが、実は「バカにしていたフリ」だったことをジョンは広報担当のトニー・バーロウに明かしている。

★ジョン、、、「ビートルズ人気がアメリカで爆発して以来、俺たちは業界にいる自分たちのアイドルに会わなくてはならなかった。オレが会うことに最も神経質になっていたのは、唯一アルマ・コーガンだけだ。彼女に初めて会ったとき、まるで若いティーンエイジャーになったような気分だったよ。もう盲目的だった。彼女の虜になっていた。ただのファンだったんだ。」

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