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【ジョンの動き】

★1969年9月に「ビートルズ脱退宣言」をしたジョンだが、勢いで言ってしまった感があり、実際に解散してしまったときにはかなりのショックを受けていたという。

★ジョンの脱退宣言はビジネス上のトラブルの原因になるという判断から公には伏せられていた。

【ポールの動き】

★ジョンと作曲するときに、ジョンとヨーコ両方に話しかけないといけないことが苦痛だと、ゲットバック・セッション時にスタッフに話している。

★ヨーコを通してジョンの機嫌を取っていると語り、ジョンと敵対してしまうと、確実にジョンはビートルズを脱退するとポールは考えていた。ビートルズ存続を願っていたポールにとっては、最も恐れていたことだった。

★1970年4月9日、翌日マスコミ関係者に配布するソロ・アルバム「McCartney」のプロモーション試聴盤には、「セルフ・インタビュー」と称する文章が添付されていた。これには事実上の脱退表明となる文言が盛り込まれていた。

★一応、マスコミが大々的に報じる前にジョンには脱退の意思を伝えるために電話をしたが、結局脱退するとの言葉を言いだせずに受話器を置いた。

★ジョン、、、「(ポールからの電話について)ポールは「去年、君とヨーコがやったのと同じようなことをするだけさ」と言っていた。「君たちがあの時何をやっていたのか、ボクは知っているんだ」とか馬鹿らしいことをね。「まあ、がんばってやってくれ」と言ってやった。」

【ジョージの動き】

★「ゲットバック・セッション」時に、一時的にビートルズを抜けたジョージだが解散までは望んでいなかった。1970年4月のポール脱退宣言のときには、ジョージはアップル社で、後に「Anthology」となる製作途中のドキュメンタリー映画「The Long And Winding Road」のフィルムを寂しそうに見ていたといわれる。

★ジョージは自作曲がなかなかビートルズの曲として採用されないことに不満はあったものの、ソロで発表すれば良いと考え、ビートルズが存続していればバンドもソロも相乗効果で上手くいくと考えていた。

★主にポールとの確執が言われているが、実はジョンともかなり関係が悪化していた。メンバーのミーティングの席上、ジョンに代わってヨーコが介入し発言することによって、ジョージが腹を立ててその場を出て行ってしまったり、メンバーのみで話し合いたいために、ジョンにヨーコが席を外すように求めてもジョンがジョージをバカにしたような態度をとることもあったという。1969年1月10日には、午前のセッション中にポールと口論になり、その後の昼食時に食堂でジョンと口論になり怒りが限界に達したジョージはバンド脱退を宣言した。

【周囲の動き、意見】

★ゲット・バック・セッション時にアンプの上に座るヨーコを見て、苦々しく思っていたニール・アスピノール。ポールはジョンとヨーコは子供と同じようなものだから、ほっといて我慢するしかないと思っていた。ヨーコがアンプの上に座ったことが解散の原因になったら、世間の笑いものだとジョークを言っている。

【アラン・クライン】

★「(1970年4月10日、ポールから嫌われていることを聞かれ)誰からか嫌われているらしいことがわかって、喜ぶわけないだろう!!」

【ポール脱退】

★1970年4月10日、「デイリー・ミラー」紙は1面でポール脱退を大々的に報じる。ジョン、ジョージ、リンゴは全員マスコミの報道でこれを知ることとなった。

★ポール脱退表明は「セルフ・インタビュー」を「デイリー・ミラー」紙が先行して入手した。

★ポールは自分の声明文をもって「ビートルズが解散した日」になるとは思っていなかったと主張。アップルの事務所でアシスタントのピーター・ブラウンが用意していた質問に答えただけだとしている。

★ジョン、、、「あいつは辞めたんじゃなくてクビになったんだ。」

★リンゴ、、、「初めて聞くことばかりだ。」

★ジョージの友人、、、「ジョージは話したくないんだ。ひとりにしてやってくれないか。」

【アップル正式声明】

★「ビートルズのメンバーは解散を望んでいません。現在の諍いも彼らの成長過程の一段階でしょう。今の彼らは互いの足かせとなっているようです。ポールはビートルズとしての活動停止を求めています。何年かは活動休止期間になると思います。」

【ビートルズ裁判】

★1970年12月31日、ポールはロンドン高等裁判所に対し、ジョン、ジョージ、リンゴ、アップル社を相手取りビートルズの法的パートナーシップの解消を求めて訴訟を起こした。

★本来ポールが訴えたかったのはアラン・クラインであったが、契約書にアランの名前が一切なかったことにより、彼を直接訴えることが出来なかった。

★ポールがアラン・クラインの支配から逃れるため、他の3人のメンバーに自分の脱退を認めて欲しいと頼んだものの認められなかった。こうなった以上は法的に決着をつける必要があり、やむなくポールはメンバー3人を訴えることになった。

★1971年2月19日、高等法院裁判初日。裁判が開始されポールとリンダは法廷の最前列に座り進行を見守った。この日はアラン・クラインがニューヨークで10件もの税法違反で有罪となり、ポールの信頼が弱まったことなどが明らかになった。元ビートルズのメンバー本人が出廷するということで多数の記者やカメラマンが裁判所に押し寄せた。

★ちなみにポールは、「絶対にジョンとヨーコも出廷する」と主張した法廷係員と賭けをして勝ち、2シリングを手に入れている。

★1971年2月22日、高等法院裁判2日目。被告弁護人のモリス・ファイナー弁護士が「アラン・クラインが破産寸前のビートルズを救った」と断言した。「アラン・クラインは自分の仕事は、金銭的に悲惨な状況に陥っているビートルズを救うためにお金を得ることであったと考えていた。アラン・クラインは素晴らしい結果を残したことは明らか。」と主張、さらに「ポールを除くメンバーは、常に彼ら個人の収入もグループ全体の資産とみなしていました。ポールは、彼のソロ・アルバムから得られるロイヤリティは彼一人が受け取るものだと主張しています。」とも述べた。

★1971年2月23日、高等法院裁判3日目。前日に引き続き被告側の弁論。モリス・ファイナー弁護士はジョン、ジョージ、リンゴに代わってそれぞれの宣誓供述書を読み上げた。

★ジョンの供述書、、、「ブライアン・エプスタインの死後、ビートルズの会社アップルは詐欺師と居候だらけになった。そういう人間が好きに出入りして、金も厚意もいいように使っていた。その後分かったことだが、その時期にアップルの車が2台消えて無くなっている。さらにボクらは、誰も買った覚えのない家をいつのまにか所有していた。だがアップルの体制を変えてもらうためにボクがアラン・クライン氏を指名すると数週間でその効果が見えるようになった。1969年初め、クライン氏は能力のないスタッフや不要なスタッフを解雇した。詐欺行為やこちらの厚意に付け込むようなマネをする人間はいなくなり、アップルのオフィスには規律と秩序が生まれた。」

★ジョンの供述書、、、「ツアーをしていた頃、仕事上も個人的にもボクらの関係が緊密だったというのは事実だが、当時から論争は幾度となく起きていた。音楽、芸術面での衝突が多かった。この点ではポールとジョージの対立がいちばん大きかったと思うけど、かんしゃくをおこして「出て行く」とほのめかした経験は全員にある。ボクらは必要に駆られて意見の違いを解決する方法を作り出した。4人のうち3人が決めたことはやる、というかたちだ。この方法だと時間が掛かり、、行き詰って結局何も出来ずに終わることもあった。それでも大体において、ボクらはそのルールに従い、最近までそれでかなり上手くいっていた。」

★ジョンの供述書、、、「ツアーをやめてからも、ロンドンやその周辺にある互いの家を頻繁に行き来していたし、仕事を離れてもそれまでと変わらず良い関係にあった。むしろポールは4人の中でもいちばんつきあいが良かったくらいだ。初期のリヴァプール時代から、ジョージとボクが一方の側、ポールがもう一方の側といった感じで、音楽の趣味が違っていた。ポールはいわゆるポップ・タイプの曲を好み、ボクらは今で言うアンダーグラウンド・タイプのものが好きだった。そのため、特にポールとジョージのあいだでは議論になることもあった。だがそういった志向の違いは、音楽的にはむしろプラスに働いたはずだ。それがボクらの成功に結びついたと思う。」

★ジョンの供述書、、、「エプスタインの死後、ポールとボクを中心にしてボクらはアップルの事業にビジネス面で関わろうとした。だがボクらは会計やらビジネス上の慣例やらも知らなかったし、ボクらにとってまず大事なのは自分たちの音楽活動だった。何より困ったのは、ロイヤリティが入ってきたとはいえ、財政状態とか税金とかいうものをボクらの誰一人、まったくわかっていなかったことだ。ボクらは新しいマネージャーを見つけるべきだと考えて何人かと面接してみたが、誰も必要なことを把握していないようだった。」

★ジョンの供述書、、、「ボクがクライン氏と会ってみることにしたのは、以前彼についてエプスタインから話を聞いていたからだ。タフだがエンターテインメント業界のことをよく知っている男で、、その後ボクはビートルズの他のメンバーに彼を紹介した。ポールや他のメンバーにクラインを雇わせようとボクが圧力を掛けたとかそういうことをポールがほのめかしているなら、それは勘違いだ。クラインはそれ以前にもこの仕事で素晴らしい業績を残していたのだから、マネージャーの地位を争う唯一の相手はイーストマンだった。ポールの妻リンダの父親と、彼女の兄、ビートルズの特定のひとりとそういう密接な関係にある人間をマネージャーにするという考えには、ボクは反対だった。クラインに対するポールの批判派フェアじゃない。確かにクラインはきわめて荒っぽいやり方をするが、それでもしっかり結果を出している。」

★ジョージの供述書、、、「深刻ないさかいとしては、ポールとボクとが衝突した1度きりだ。1968年にボクはアメリカに行き、多くの一流ミュージシャンと組んで非常に気分のいいセッションを経験した。ポールが過去何年もの間ボクに対して見せていた、音楽的にボクより優れているという態度とは、まさに対照的だった。1969年1月、ボクらはトゥイッケナム・スタジオで映画の撮影をしていたが、とてつもなく陰鬱で冷たい雰囲気で、全員が周りの状況にいささかうんざりし始めていた。カメラの前で、ボクらが実際映されているときに、ポールはボクのプレイについて「いちゃもん」をつけ始めた。ボクはもううんざりだと思い「ボクはやめる」と他のメンバーに言った。音楽面で満足できなかったからだ。でも数日後にみんなから戻ってきてくれと言われた。ボクも撮影とレコーディングの途中でみんなを放り出したくなかったし、ポールもボクのプレイに口出ししたり説教したりしないということだったから、それで戻ることにした。あのケンカ以来、ポールはボクを対等なミュージシャンとして扱うようになった。つまりこの事件そのものも、対立を原因にして、ボクら全員にとって好ましい方向へ進むことがあるという証明になると思う。クリスマス直前にポールの弁護団から手紙が届いたときには信じられなかった。なぜポールがあんな行動に出たのか理解できない。」

★リンゴの供述書、、、「ビートルズはまだグループでいられたかもしれない。ポールは世界最高のベーシストだ。同時に確固たる信念を持っている。自分の思うところを目指して、どんどん推し進めていく。それは長所でもあるけれど、一方でそのために、ときどき音楽面での対立が生じるのは避けられない。だが、そういった対立が、素晴らしいものを生むきっかけにもなった。ボクが衝撃と失望を感じたのは、ポールが1月にロンドンでビートルズ4人全員が集まることを約束した後、12月31日に訴えが起こされたということだ。ボクはポールを信じているから、彼が約束を簡単に破るような人ではないとわかっている。12月末にポールとジョージがニューヨークで会ったとき、ボクの知らない何か重大なことが起きたに違いない。ボク個人としては、今からでもボクたち4人ですべてうまく解決できると思っている。」

★1971年2月24日、高等法院裁判4日目。アラン・クラインの供述書、、、「1969年5月に私がマネージャーになってから、9ヶ月間でビートルズの収入は2倍以上になった。1970年には5倍、さらに私の努力の結果、ビートルズの共同事業による収益は1969年3月31日までの9ヶ月間における85万667ポンドから、1969年12月31日までの9ヶ月間には170万8,651ポンドに増加した。1970年12月31日までの年度収入は438万3,509ポンドである。」

★アラン・クラインの供述書、、、「ビートルズが私をマネージャーにしたことにより損害を受けたという意見については、はっきり否定する。逆に彼らは大いに利益をこうむった。ポールは私の業務上の高潔さそのものを攻撃し、さらにビートルズの共同事業の資産が危険な状況にあると断言した。」

★アラン・クラインの供述書、、、「ビートルズのマネージャーになる前、私はきわめて危ない状況を引き受けることになるのを憂慮していた。会計監査役によると、支払い能力にも関わってくる状況とのことだった。私は何度も会合を持ち、そこでビートルズに対してこの状態を明確にするとともに、私の第一の任務はこの状況を軽減するために、彼らの収入を増やす手助けをすることであると話した。最大の収入源はレコードの売り上げ印税であることから、私はEMIと新たな契約を取り付ける交渉をしたいと考えた。EMIとの交渉はビートルズの4人と話し合った結果私一人が交渉し契約を結ぶ権限を持つということで意見が一致した。ポールはジョン・イーストマンも同席すべきと主張したが、全体の意見に従った。」

★アラン・クラインの供述書、、、「1969年5月7日に会議が開かれ、ジョン、ポール、ジョージ、オノ・ヨーコ、私、そしてEMIの代表3人が出席した。EMIはNEMSの請求が未解決であるかぎり、新しい取り決め交渉に入るつもりはないとして、会議では結論が出なかった。私は自分の会社ABKCOでNEMSを引き継ぎ、ビートルズが多額の報酬を得るようにしたのである。それにもかかわらず、ジョン・イーストマン氏はこの決定を批判した。」

★1971年2月25日、高等法院裁判5日目。モリス・ファイナー弁護士が読み上げたアラン・クラインの提出証拠、、、「ポールは私を決して彼のマネジャーとして認めなかったが、共同事業側は認めており、したがって私は現在に至るもこの共同事業のマネジャーである。ポールは私がマネージャーとして交渉した結果生じた利益を受けている。取引の能力については、私のこれまでの成績から判断していただきたい。私は一度として不正な行為はしたことはなく、悪辣な行為に及んだことも、ポールのマネージャーであると主張したこともない。私が誤った根拠に基づいてビートルズに契約を結ばせたというのも事実無根だ。ポールはたとえ気が進まなかったにしても、事実として、これに署名しているのだ。」

★翌26日、高等法院裁判6日目。ポールはリンダを伴いロンドン高等法院へ。ポールは証人席に立って答弁を行なった。3日前に読まれたジョンの供述書の中の「レコーディングをひとりで行なっても、2人や3人で行なっても、ボクらは常にビートルズとして考えていた。」との主張に対してポールは否定する答弁を行なった。ポール、、、「ビートルズがグループとしてのレコーディングをやめてから、ボクたちは自分たちをビートルズとして考えなくなっていました。最近のジョンやジョージのレコードを見れば、ふたりとも自分をビートルズの一員と思っていないことが明らかです。ジョンは最近出したアルバムで、自分の信じていないものを列記していますが、そのひとつが「ボクはビートルズを信じない」でした。」

★ポールの答弁その2、、、「1967年にボクたち4人が共同契約を結んだとき、ボクたちは厳密な表現など気にしていなかったし、その契約の持つ法的な意味合いなどまったく考えてもみませんでした。4人のうち誰かがグループを抜けたくなれば、そう口にするだけで済むものだと思っていました。過去にボクたち4人が意見の違いを解決した方法については、3対1の多数決だったというには事実ではありません。ひとりが反対すれば、ボクたちはその問題をとことん話し合って、全員の意見が一致するか、あるいはその件をなかったことにするというところまで持っていったんです。3対1の多数決で決着した問題などボクは知らない。」

★ポールの答弁その3、、、「イーストマン親子とボクがアラン・クライン氏の会計業務を妨害したというのも、はっきり否定します。それにイーストマン親子がビートルズのマネージャー職を争ったというのも違う。ボクはふたりをマネージャーにしたかったけれども、他の3人が賛成しなかったから、それ以上は要求しなかった。ジョンはクライン氏がグループ内に争いの種をまいたのだというボクの主張に反論しましたが、ボクは電話でクライン氏に言われたのを覚えています。「ジョンがなぜ君にに腹を立てているかわかるか?Let It Beで彼より君のほうが良い印象を与えるからさ」とね。それにクライン氏はこうも言いました。「本当の問題はヨーコだ。野心を持っているのは彼女だよ」ジョンがその言葉を聞いていたら何といっただろうと何度も思うんです。ボクたち4人で解散について話し合ったとき、ジョージは言いました。「封筒に入れて投票できるなら、ボクは解散に投じるね」。」

★ポールの答弁その4、、、「クライン氏はいつも誇張した言い方で自分をアピールしていました。それでますますボクはクライン氏をマネージャーに任命すべきではないと確信を強めたのです。ビートルズのほかの3人は、誰ひとりボクがどうしてこういう行動を取ったのかわかってくれなかったようです。簡単に答えればグループはすでに解散状態にあり、ひとりひとりがそれぞれの音楽キャリアを築き始めていたのに、まだ会計監査はおこなわれず、税金の状況もわからなかった。付け加えますが、これらの点については他のビートルズのメンバーも否定してはいません。」

★3月1日、高等法院裁判7日目。ポールの代理人であるデヴィッド・ハースト弁護士、、、「ビートルズが修復しがたい解散状態にあったことはきわめて明らかでした。」

★3月2日、高等法院裁判8日目。ポールの代理人であるデヴィッド・ハースト弁護士、、、「アラン・クライン氏が現れたのは、ビートルズが波に乗っているときです。クライン氏がこの波を起こしたとは主張できないでしょう。まったく関わりがありません。グループは既に解散状態にあり、再建できる可能性はありませんでした。不協和音があったことは明らかです。4つの項目が、ポールの申し立てが正しいことを示しています。資産が危険にさらされていること、パートナーひとりを排除したこと、1人のパートナーに対して他のパートナーが誠実さを欠いていたこと、結果的に解散する可能性です。」

★ジョン、ジョージ、リンゴの代理人モリス・ファイナー弁護士の反論、、、「ポールは彼の弁護士によると、どうやら誰もが天使である世界に暮らしているように思えます。」

★3月3日、高等法院裁判9日目。ジョン、ジョージ、リンゴの代理人モリス・ファイナー弁護士、、、「実際問題として、このグループの業務に管財人を指名すれば、取り返しのつかないことになります。管財人が指名されれば業務は停止したという印象を与え、ビートルズの名声に傷がつくでしょう。」

★3月12日、高等法院裁判最終日。高等法院裁判はポールに有利な判決を下した。ポールの代理人であるアンドリュー・レガットは「私のクライアントは共同事業の財政状況を最も心配していたが、その心配がまっとうなものであることが照明された。」と述べた。ジョン、ジョージ、リンゴは判決結果を告げられると裁判所をでて、あとを追いかける記者に「ノー・コメント」と言い捨て、ジョンのロールス・ロイスでアップルへ戻る。その後3人は車でキャベンディッシュ・アヴェニューのポールの自宅へ向かい、ジョンは車からレンガを取り出すと、ポールの家の壁を傷つけ、さらに窓に投げつけたという。

★1971年4月27日、ビートルズを脱退するというポールの決断を受け入れたジョン、ジョージ、リンゴは弁護士を通じ上告しないことを通知した。

★1974年12月26日、ビートルズの契約解消に関する書類に4人の中で最後にサインすることとなったジョン。遊びに来ていたフロリダのディズニー・ワールドで宿泊していたハワイアン・ヴィレッジ・ホテルにてジョンがサインしたことにより、4人全員の署名が揃い、書類上ビートルズはバンドとしても企業としても解散が決定した。

★1975年4月9日、ロンドン高等法院ビートルズとその関連企業の提携関係が解消した。判事は「ミスター・マッカートニーとジョン・レノン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターとの係争点はすべて解消した。」と告げた。ポールのビートルズ脱退宣言からほぼ5年。ここにビートルズは法的にも解散が決定した。

★ポールのコメント、、、「ビートルズの法的なつながりが切れて、ホッとしたよ。」

【メンバーのコメント】

★ジョン、、、「(1970年4月17日)どういう状況かと言うと、これはジョン、ジョージ、リンゴの個人といての問題なんだ。ボクらはポールとは何の連絡も取っていないし計画も無い。ただ、彼のやることなすことに腹を立てているだけさ。混乱を引き起こしているだけだ。ポールは、いつもすぐにすねて、挙句つむじを曲げられたら、あとはどうなるのかわかったもんじゃない。昔からずっとそうだった。」

★ジョン、、、「裁判が始まってジョージ、リンゴと3人で何度も協議した。何週間、何ヶ月、延々と続いたね。ジョージとリンゴはイライラしてきていたし、ボクもこれ以上はゴメンだった。それでついにジョージが言ったのさ「もうたくさんだ、これ以上続けたくない。どうだっていいよ!貧乏になったってかまいやしない。全部くれてやるさ。」ってね。」

★ジョン、、、「(1971年7月17日)ボクらは28歳か29歳のころ、「何が目標なんだろう?」という感じになってきた。もう成功しちゃったんだから。ボクらの才能はさらに広がり、ジョージは前よりずっと曲を書くようになってきた。それでも彼はアルバム1枚に1曲入れられればいいほうだった。それぞれの性格もだんだんはっきりしてきた。みんなビートルズのなかで息苦しさを感じるようになってきた。」

★ジョン、、、「(1971年7月17日)ビートルズが徐々に人気を失くしていき、そのうちカムバックするなんていうのは嫌だった。ボクは20歳のとき「30歳になったらShe Loves Youは歌わない」って言った。実際に30歳になったけど、意地を張って歌わないわけじゃない。自然とそうなったんだ。30歳になる頃には、そういった歌からは離れているだろうなと思った。そして実際にそうなった。」

★ジョン、、、「(1971年7月31日)ポールはすべて自分でやりたがる。何でも欲しがるのさ。金のことだけじゃない、何についてでもそういう方針なんだろ。たとえば、ポールはこのゴタゴタを起こして以来、ボクらに100万ポンド以上は使わせている。モノポリー・ゲームじゃないんだ。本物の金だよ。ボクらはひと財産を失った。」

★ジョン、、、「(1971年9月8日、ヨーコはビートルズを分裂させた女だと言われていることについて)もしヨーコがボクらを分裂させたんだとしたら、ヨーコに感謝してくれないかな。解散してからジョージ、リンゴ、ポールそしてボクが作った曲。これだけいい曲が出たのはヨーコのおかげってことだろ?」

★ジョン、、、「(1971年9月8日、ヨーコはビートルズを分裂させた女だと言われていることについて)とにかく、ビートルズが解散したのはヨーコのせいじゃない。どうして、一人の女の子に、女性にビートルズを解散させることが出来る?ビートルズは自然にバラバラになっていったんだよ。」

★ポール、、、「(1970年4月イブニング・スタンダード紙のインタビュー)メンバーの誰かがビートルズを離れて何かやろうとすれば、必ず他のメンバー全員の許可を取らなくちゃならない。ボクのソロ・アルバムがあやうくお蔵入りしかけたのも、アラン・クラインと他のメンバーがビートルズのニュー・アルバムの発売日に近すぎると考えたからなんだ。アップルのディレクターでもあるジョージからソロ・アルバム発売の許可をもらわないといけないんだ。ボクたちはみんな愛とか平和とか歌っているけど、現実には平和な気分なんかぜんぜん感じたことはない。」

★ポール、、、(1971年ライフ誌のインタビュー)「もしボクたち4人だけだったら、それぞれ荷物を持って、これはボクの靴、それはボクのボール、あれは君のボールって、そのまま立ち去っていたと思うよ。ボクはいまでもそれが唯一の方法だと思っている。実際に足を運んで整理するしかないんだよ。ビジネスのレベルでどんな問題が絡んでこようとね。だけど言うまでもなく、ボクたちは普通の4人じゃない。巨大なビジネス・マシーンの一部なんだ。だからボクは裁判に持ち込んでビートルズを解散させるしかなかったんだよ。4人の人間のレベルでやるべきだったことを、ビジネス・レベルでやるためにね。そうするしかないと思うんだ。」

★ポール、、、(1971年ライフ誌のインタビュー)「そんな素晴らしいものを終りにしてしまうなんて残念だ、とみんな言っていた。ボクだってそう思うよ。残念に決まってるさ。でもみんなが生きているのは現実の世の中だ。美しいものを美しいまま、バラバラにすることなんて出来ないんだ。」

★リンゴ、、、「ビートルズに亀裂が生じたとき、確かに大ゲンカになったけど、ボクらはまだお互いを愛していたんだ。時期が来たから解散したんだよ。でも連絡はよく取り合っていたよ。(2004年)

★リンゴ、、、「1968年に、もうこれ以上演奏できないと思ったんだ。ほかの3人がとても親密で、ボクの存在は意味がないと感じた。ボクはジョンに脱退するとは言っていない。(2004年)」

【11月11日更新】★リンゴ、、、「解散すれば「はい、ビートルズは終了です」なんてことにはならないよ。ボクのすべてなんだからね。バタンとドアを閉めてリヴァプール8,アドミラル・グローブ10番地のリチャード・スターキーに戻るなんてわけがないんだ。ボクら全員が、あのバンドにいたことを引きずっているんだよ。」

【1971年メロディ・メーカー誌上でのジョンとポールの批判合戦】

★1971年11月20日、メロディ・メーカー誌に11月10日にアビーロード第2スタジオのコントロール・ルームでのポール独占インタビューが掲載された。インタビューのタイトルは「レノンがクールじゃない理由」。

★ポール、、、「とにかくボクは4人でどこかに集まって、紙切れにサインしたいんだ。すべて終わった、金も4等分しようって。その場には誰も同席させない。リンダやヨーコ、アラン・クラインさえね。とにかくそういう書類にサインして、ビジネス関係の人間に渡して後はそういう人に任せればいい。今のボクが望むのはそれだけだ。でもジョンは受け付けない。みんなボクがケンカを吹っかけているって思っている。でもそうじゃないんだ、ボクはただ自由になりたいだけなんだよ。」

★ポール、、、「ジョンとヨーコのやっていることは、クールじゃない。このあいだの夜、ふたりが出ていたテレビを見たけど、彼らふたりがやりたいって言っていることは、基本的にボクとリンダがやろうとしていることと同じだよ。今のジョンというと、すごく正直でオープンといったイメージだろ?確かにそれもジョンだし、ボクも「Imagine」のアルバムは好きだ。でも他のは好きじゃない。他のアルバムには政治的なものが多すぎる。ボクが彼のアルバムを聴くのは、どこか盗めるところがないかって探るためでしかないけどね。」

★ポール、、、「How Do You Sleep?はくだらない。まともな人間と暮らして何が悪い?ボクはまともな人間が好きだし、子供もまともさ。彼はボクのやったことは「Yesterday」だけだと言っているけど、それが間違いであることは自分でわかっているはずだ。」

★メロディ・メーカー誌12月4日号に、ポールのインタビュー記事を攻撃する内容をジョンの手紙という形式で掲載。ジョンは「平等な枠」で掲載するようにと主張。名誉毀損で訴えられる可能性があると見て、メロディ・メーカー誌はジョンの原文を7行削って掲載した。

★ジョン、、、「ポール、リンダ、それからかわいいマッカートニー家のみなさま、お手紙どうもありがとう。ところでポール、君のアップルの持分に対しては、金はやっているはずだ。ロイヤリティの形で、さらに金をやっている。」

★ジョン、、、「この数年というもの、百万回も繰り返していることだけども、税金はどうなるんだ?メロディ・メーカー誌で素朴で正直な善人ポールを演じるのは大いに結構だが、紙切れにサインすればそれで済むってわけにはいかないのはわかっているはずだ。「ジョンが受け付けない」と言ったね。君がボクらの税金負担を保証してくれるなら、喜んで受け入れるさ。とにかく、ボクらがミーティングを開いた後は、ボクらが決めたことはすべて弁護士のやつらに実行してもらわなきゃならないんだ。そうだよな?」

★ジョン、、、「君次第だ。ボクらが何度も言ってるように、いつだって君の好きなときに集まってやるよ。いいから早く決めてくれ。そういえば、ボクは2週間前に電話で頼んだよな。アドバイザーやら何やら抜きで会わないか?そこでどうしたいか決めようって。だけどおまえは拒否した、そうだよな?どんな条件だろうとボクらには売らない。ボクらが君の望みどおりにしなければまた訴えるとね。そのうちリンゴもジョージも君から離れていくよ。」

★ジョン、、、「メロディ・メーカー誌の「ポールちゃんだけインタビュー」には、もうひとつちょっとしたウソがある。「Let It Be」が初めてちょっと宣伝過剰になったビートルズのアルバムだって?トニー・バーロウを忘れたかね?「Please Please Me」とかいろんなものについての、彼の素晴らしい文章を。それにあれが「ビートルズの新局面を示すアルバム」だったってことは、おまえも認めるんだろ?そういう言い方もまさに偉大なるバーロウのスタイルだけどな。ところでデビュー・アルバムのジャケットのパロディを「Let It Be」のジャケットにしようっていうボクのアイデアはどうなったのかな?」

★ジョン、、、「(バングラデシュ・コンサートの出演を拒否した理由を、ビートルズ再結成したとマスコミが騒ぎ、アラン・クラインに手柄になることを嫌ったとするポールについて)いいかね、妄想の激しいポール君。あれはジョージの記者会見だったんだ。悪魔のクラインのじゃない。彼から聞いたよ。君が何て言ったか「ぜひ出たいんだけどね、でも、、、。」」

★ジョン、、、「クールじゃないジョンとヨーコみたいに、レコードに自分たちの写真を貼りたいかね?お前は恥ってものを知らないのか?ボクらがクールじゃなかろうと、それがお前とどんな関係がある?」

★ジョン、、、「追伸。ボクらが本当にとまどったのは、リンダもヨーコも抜きで会おうってところだ。もう分かってくれているのかと思ったよ。ボクはジョンとヨーコなんだ。追伸の追伸。おまえの弁護士だって、おまえが「紙切れにサインするだけ」ってわけにはいかないことは知っているだろう?それとも教えてもらっていないのか?」

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