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【レノン=マッカートニー】

★アルバム「Please Please Me」では作詞作曲者のクレジットがおなじみの「Lennon-McCartney」ではなく「McCartney-Lennon」になっている。「She Loves You」以降はずっと「Lennon-McCartney」である。ポールによると「ジョンのいつものやり方さ」ということだが、やっぱりジョンにしたらNo.2のような位置は嫌だったのだろうか。

★デビュー・シングル「Love Me Do / P.S.I Love You」では、クレジットの順番はアルファベット順が公平だということがメンバーとブライアン・エプスタインを交えた場で協議し決定していた。しかし、主になって作曲したほうの名前が先に来ることを主張するポールに対して、ブライアンは二人の名前がちゃんと記載されるんだから順番なんていいじゃないかとポールをなだめるも、どうしてもポールは納得しなかったという。仕方なくポールの案を採用となるも、実際はジョン主導の「Please Please Me」以降は「マッカートニー=レノン」、ポール主導の「She Loves You」からは「レノン=マッカートニー」となっている。

★ポールのコメント、、、「作曲チームにジョージも入れるという選択肢もあった。ジョンと真剣に話し合ったよ。ある朝ジョンと一緒にセント・ピーターズ教会の横を歩きながら、その問題を話し合ったのを覚えている。ジョージに対する悪意はないけど、3人で作曲するか、それともシンプルにしたほうがいいかってね。そしてふたりだけにしよう、ということになった。」

★後の2002年11月にリリースされたポールのDVD「Back In The U.S.」で、ビートルズ時代に自分が主に手がけた作品を「マッカートニー=レノン」と表記した。これを受けてか翌年にリリースされたDVD「Lennon Legend」では収録曲「Give Peace A Chance」のクレジットからポールの名前が外され「レノン」に。「Let It Be Naked」リリースの際には「レノン=マッカートニーはロックのシンボルだから、そのままでいい。」として、クレジット問題は一応の決着を見た。

★ポールのコメント、、、「ボクは何も間違ったことはしていない。もしもいつかそう望めば、入れ替えることが出来るという同意がジョンとボクとの間に出来ていた。ボクがジョンのお墓の上で踊ろうとしているみたいに報道されているけど、それは残念なことだよ。ボクはジョンの大ファンだし、ジョンのことをいちばんよく知っている。ボクがジョンを蹴落とそうとしているなどと考える人は大嫌いだね。ボクは30年間でただ一度だけ「入れ替えるよ」と尋ねただけさ。」

【ハリソングス】

★1965年4月20日、ジョージの作品を管理する音楽出版社「ハリソングス」の取締役にブライアン・エプスタインが就任する。

【NEMS】

★1967年にブライアン・エプスタインが他界後、ビートルズはNEMSを買い取る計画を立て、リンダの兄である弁護士のジョン・イーストマンに交渉を依頼するも、アラン・クラインとの対立でゴタゴタしNEMSとの交渉は難航した。

★ビートルズがNEMS買取に手間取っている間に、以前からNEMSの経営に興味を示していた信託会社トライアンフ・インベストメンツが、1969年2月に買い取ってしまった。

【ノーザン・ソングス】

★ポール、、、「デビュー間もない頃は、ボクたちはビジネスのことは何もわからなかった。この業界じゃ、アーティストや歌手であれば、エージェントとかビジネス側の人間が付く。そしてときには食い物にされることもある。だからボクたちは契約とかそういったものに多く関わるようになった。すごく退屈だけどちゃんとしなくてはならない。ただのロック・バンドにすぎないけど、サインするときには「これはどういう意味なんだ?」と考える必要はあって、それが成長であって、人生のどこかで一度そういうことをやらなければいけないんだ。(1969年)」

★1969年3月、ディック・ジェイムスが自ら保有する37.5%もの株をATV(アソシエイテッド・テレビ)に売却。新聞報道でこれを知ったジョンとポールは激怒した。

★メンバー間の不和がささやかれ始めたこの時期、株価が下落する前に売却してしまおうとするディック。売却交渉をジョンとポールがそれぞれの新婚旅行中にこっそりと行われたことに、さらにジョンとポールは怒りを爆発させている。

★この頃のジョン、ポールとディック・ジェイムスの関係は徐々に悪化している。その原因はノーザン・ソングス設立当時の契約がジョンとポールの取り分が印税の50%というのはおかしいとディックに変更を迫ったことによる。

★ジョンとポールは31%の株式を保有しており、経営権を持てる51%以上の株式所有を目指しアラン・クラインが動いたが、クラインの世間での悪評やジョンが「スーツを着た連中に引っ掻き回されたくない」などの発言により株の所有者がATV側に売却したためにATVの持ち株が54%を超えた。

★1969年5月、正式に経営権を握ったATVに対してアラン・クラインに助言を受けたジョンとポールはそれぞれの持ち株をATVに売却し、自らの作品の著作権すべてを失ってしまった。

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