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【イギリス】

★ファーストアルバム「Please Please Me」は、1963年3月27日NME誌アルバムチャートにおいて9位初登場。5月8日にトップに立つ。以後11月20日まで29週間連続1位。ちなみに翌週の1位は入れ替わるようにセカンドアルバムの「With The Beatles」であり21週1位を獲得している。「Please Please Me」は1位陥落後も16週間にわたって2位を続けていた。つまり、ほぼ1年間に渡ってビートルズのアルバムがチャートトップに居座り、その内16週間は1,2位をビートルズのアルバムが独占していたことになる。

★10月には25万枚を売り上げ、当時のイギリスでの売り上げ枚数の新記録を樹立。最終的には50万枚を売り上げた。

★セカンド・アルバム「With The Beatles」は、NME、メロディ・メーカー誌ともに初登場1位。それぞれ21週、22週連続1位を記録。アルバムにもかかわらず、NME誌のシングルチャートにも登場して11位となり、シングルチャートにおけるアルバムの最高順位を記録した。

★イギリスではそれまでの最高予約枚数を記録していたエルヴィス・プレスリーの「Blue Hawaii」の20万枚を突破し、30万枚に塗り替えた。発売から1週間で50万枚を突破1965年9月には100万枚を超え、イギリスのミュージシャンによる史上初のミリオンセラーを記録した。

★ビートルズと同じ髪型「ビートルズ・カット」にしたため、学校への登校を止められた男子生徒が続出した。

★ロンドン公演に際してビートルズのメンバーの身辺警護にあたった警察官の人件費がイギリス国会で問題になった。

★1963年8月4日、クイーンズ・シアター公演(ブラックプール)で、会場周辺にいるファンを避けるため、メンバーは屋根伝いに会場へ入る。

★1963年暮れに行なわれた「ビートルズ・クリスマス・ショー」の10万枚のチケットは、発売25日で完売した。

★1963年11月9日、グラナダ・シネマ公演(ロンドン)、グラナダ・シネマ(ロンドン)会場周辺に6,000人ものファンが詰めかけ周辺の道路は大渋滞。車から降りたビートルズは絶叫するファンに取り囲まれてきていた服がビリビリに破れてしまった。ジョン、、、「いったい何のさわぎだ。どんなすごい奴が来るっていうんだ?ストーンズでも来るっていうのか?」

★1963年12月14日、ウィンブルドン・パレ公演(ロンドン)で、ファンのすさまじい熱狂振りを危惧した主催者が不測の事態が起こらぬようにと、ステージの四方に金網を張った。ファンは金網まで殺到し恐怖を感じたジョージは途中でギターを片付けて帰ろうとした。

★1964年3月20日発売のシングル「Can't Buy Me Love」は予約だけで100万枚を突破して、史上初めて予約だけで100万枚以上売れたシングル盤となった。

★シングル盤「Can't Buy Me Love」は、史上最も予約枚数があったレコードとして、ギネス世界記録に認定されている。

★シングル盤「A Hard Day's Night」は予約の段階で、つまり発売前にも関わらずヒットチャートNo.1になった。

★1964年10月21日、全英ツアー中のスコットランドのオデオン・シネマ公演で、コンサートの騒ぎに便乗して、暴動を起こした若者9人が逮捕された。

★1965年6月12日、ビートルズがMBE勲章を受章するというニュースが各紙朝刊のトップニュースに。退役軍人のひとりが抗議のために勲章を返還する。

★1965年6月19日、タイムズ紙の投書でチャールズ・ド・ホートンがビートルズの受勲を支持。理由としてビートルズが外貨を稼いでいること、イギリスのコーデュロイ産業を救ったことを挙げている。

★1965年6月21日、政府高官がビートルズのMBE受勲に抗議して勲章を返還する。

★1965年6月13日、ビートルズの版権を管理するノーザン・ソングスが、これまでにビートルズの曲のカバーが1337に達したと発表。

★1965年8月に発売された5枚目のアルバム「Help !」。イギリスでは予約だけで25万枚を突破、発売後も最初の1週間だけで27万枚以上売り上げた。37週連続でチャート・インし、さらには解散後の1971,1976年にもチャート・インしている。

★1965年11月25日、イギリス王室御用達の老舗高級デパートハロッズを3時間閉店させ、クリスマスのためのショッピングをする。

★1981年に出来たリヴァプールにある住宅地「ウィンピー・ホームズ」には4人それぞれの名前を冠した通りが作られた。

★1981年12月、ジョンの死後の1年間で全世界でビートルズのレコードが7,500万枚という驚異的なセールスを上げたとEMIが発表した。

★2010年11月にビートルズの楽曲がiTunesに登場して以来、3か月で500万曲の楽曲と100万枚のアルバムを売り上げた。何と登場した週だけでアルバム45万枚、楽曲は200万曲売れた。

★アルバム「Abbey Road」は2009年にリマスター盤が発売されたが、40年前のアルバムにも関わらず全英チャートで6位を記録した。

★2007年に新たにリヴァプール市長に就任したポール・クラーク氏は大のビートルズ・ファンで、膨大なレコード・コレクションを所有している。

★ポール・クラーク、リヴァプール市長、、、「私はビートルズの大ファン。私が生まれて初めて買ったレコードは「I Want To Hold Your Hand」で、私は今でも彼らが作ったレコード盤を全部持っています。1963年リザーランド・タウンホールでのコンサートを今でも覚えています。姉のシルヴィアは、ビートルズのエンパイア・コンサートに行って、その後2日間、声が枯れていましたよ。

【アメリカ】

★1964年4月4日、キャッシュボックス誌のヒットチャートでTOP1~5位までを独占するという前代未聞の快挙を達成した。ちなみに1位「Can't Buy Me Love」2位「Twist And Shout」3位「She Loves You」4位「I Want To Hold Your Hand」5位「Please Please Me」。さらに31位「I Saw Her Standing There」、41位「From Me To You」、46位「Do You Want To Know A Secret」、58位「All My Loving」、65位「You Can't Do That」、68位「Roll Over Beethoven」、79位「Thank You Girl」と、なんとTOP100に12曲同時チャートイン。このとんでもない大記録は今後絶対に破られることはないといわれている。

★さらに翌週には「Love Me Do」「There's A Place」もチャートインしたので、なんと14曲同時チャートインという信じられない記録を打ち立てた。

(アメリカ初上陸時のエピソード)

★1964年1月17日に「I Want To Hold Your Hand」がチャートの1位になってから「Can't Buy Me Love」が1位から陥落するまで、なんと16週連続でビートルズの曲が1位となった。

★1964年2月9日、アメリカの人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」に初出演。72%という過去最高の視聴率を記録した。またビートルズの出演していた時間は、ニューヨーク市では青少年による犯罪件数は「ゼロ」だった。

★全米で7,300万人がテレビの前に釘付けになり、トイレも我慢して視聴した結果、出演時間の水道使用量が激減、CM中に激増した。

★全米各地で交通渋滞が緩和された。

★デトロイトでは「Stamp our the beatles(ビートルズを撲滅せよ)」というキャンペーンをおこなった。ポールは即座に「ボクたちはStamp our Detroitキャンペーンをやるよ。」と答えている。

★ビートルズの圧倒的人気とそれに続くブリティッシュ・インベージョンで、世界的に「ホロー・ボディ(本体が空洞)」のギターが異常な人気となり、ソリッド・ギターの大御所のフェンダーのギターが売れなくなり、60年代半ばエレキギターの代名詞的な存在のフェンダー・ストラトキャスターは全く売れなくなった。

★1968年発売のアルバム「The Beatles」発売一週間で200万セット以上を売り上げる(ギネス・レコード)。また、2枚組売り上げの記録は1978年にアメリカで「サタデイ・ナイト・フィーバー」に抜かれるまで、約10年間にわたって1位を記録した。

★1968年発売のアルバム「The Beatles」アメリカではRIAA公認のプラチナ・アルバムに19回獲得しているほか、カナダやオーストラリアなどでも複数回のゴールド・レコードを獲得している。

(初の全米ツアー、エピソード)

★FBIは「反政府もしくはそれ以外の人種差別的な分子や組織がビートルズ訪問に便乗すれば、ロサンゼルスとサンフランシスコ訪問は格好の標的になる。」との情報をロサンゼルスとサンフランシスコ支局に送った。

★初の全米ツアー開始前日の1964年8月18日、サンフランシスコ国際空港には9,000人の熱狂的なファンが出迎えた。

★宿泊先のサンフランシスコ・ヒルトンにはエルヴィス・プレスリーのマネジャーのトム・パーカー大佐から電報が届いた。「エルヴィスと私から、アメリカにようこそ。ツアーが成功し、良い旅となるよう心から願っている。」

★ヒルトン・ホテルのレストランは「ビートル・バーガー」なる商品を便乗販売した。

★ヒルトン・ホテルはビートルズが宿泊した部屋のベッドシーツを細かく切り刻んで売り出した。ツアー中の各ホテルにも伝染して、どこのホテルもビートルズが寝たベッドシーツを切り刻んで販売した。

★初訪米の際、ニューヨークのプラザ・ホテルでは玄関前に大群衆が押し寄せたり、部屋に侵入しようとしたファンがいたり大騒ぎになった。このため、この全米ツアーでは騒ぎを恐れて宿泊拒否を受けたりしたので、モーテルなどの簡易宿泊所に滞在することもあった。また、宿泊できたホテルであっても、ファンが押し寄せたり、殺人予告が舞い込んだりして、ビートルズ側からキャンセルして、移動に変更する事態も起こった。

★初訪米時に話題となったステージに雨あられと降り注ぐジェリー・ビーンズ。初全米ツアー時にも相変わらずジェリー・ビーンズが飛んできたが、さらには生肉や女性の下着まで飛んできた。ジョンはロード・マネジャーのマル・エヴァンスに「(投げ込まれたものの中に)使えるものがあったら、取っておいてくれ」と頼んでいた。

★1964年8月のカウ・パレス公演のポスターは一切作られなかった。ビートルズ公演にはもはや宣伝などは必要としなくなっていた。

★チケットもぎりのスタッフは全員「ビートルズかつら」を着用して仕事をしていた。

★1964年8月のラスベガス公演。空き時間にホテルのプールやカジノでリゾート気分を満喫しようとおもっていたメンバーだが、ホテルの周りに集まった約2,000人のファンの大騒ぎで中止になり、メンバーは部屋に缶詰状態になった。気の毒に思ったホテル側がなんとスロットマシンを部屋に設置してくれてメンバーを大喜びさせた。

★1964年8月18日、デンバー公演のプロモーターのバーン・バイアーズに「コンサートを中止しないと、ステージに手榴弾を投げ込んでビートルズのメンバーを殺害する」という匿名のはがきが届く。FBI長官のもと徹底的な捜査の結果、ただのゆすりと判断され、コンサートは無事に終了した。

★1964年8月のシアトル公演。空港で多数のファンが待ち受けているニュース映像が残されており、特にリンゴの顔や名前が刺繍された服やプラカードなどが目立つ。またホテル前では「We want the Beatles」のシュプレヒコールが起こり、コンサートの音源はビートルズの登場と同時にジェット機の爆音のような悲鳴が起こり、かろうじて曲目が確認できるほど。

★1964年8月23日のハリウッド・ボウル公演。前日のバンクーバーでの大騒動を聞きつけて、当初はバーバンクのロッキード空港(現在はボブ・ホープ空港)に到着予定だったが、供覧状態になることを恐れた空港側の要請でロサンゼルス国際空港に変更された。

★アンバサダー・ホテルが混乱を恐れて宿泊を拒否したため、イギリス人俳優のレジナルド・オーウェン邸をレンタルしたが、プールもあってゆっくりくつろげるオーウェン邸のほうが好評だった。

★1964年8月のニューヨーク公演。JFK空港に深夜に到着したにもかかわらず、約3,000人のファンが出迎えた。2日前から空港で待っていたファンもいた。

★2月の初訪米時にニューヨークのプラザ・ホテルでの騒動を目の当たりにしているニューヨークのホテルは一斉にビートルズの宿泊を拒否したが、デルモニコに住んでいるエド・サリヴァンの口添えでデルモニコ・ホテルに宿泊できることになった。

(2度目の全米ツアーでのエピソード)

★1965年8月の全米ツアー、4人に掛けられた保険料も大幅に引き上げられ、前年の10倍以上の「1人550万ドル(当時のレートで約20億円)」となった。

★1965年8月、伝説のシェア・スタジアム公演。ビートルズをどうやってホテルから会場まで運んで、またホテルに連れ戻すかが問題になった。ウォール・ストリート・ヘリポートからシェア・スタジアムまでヘリコプターで運ぶという案が有力だったが、狂乱するビートル・マニアがフィールド内に侵入した際、ヘリのローターで大怪我をする可能性があると、ニューヨーク市から強硬に拒絶され変更することになった。

★最終的な移動方法はホテルからヘリポートまではリムジンで移動。球場の上をヘリで旋回し、到着先はスタジアムに隣接する世界博覧会の会場。そこから装甲車に乗り込みスタジアムの外野ゲートに乗り付けるというもの。

★このシェア・スタジアム公演における観客動員数、総売り上げ、ビートルズのギャラ(16万ドル。当時のレートで約5000万円)はいずれも当時のポップ、ロック・コンサート史上最高記録を記録した。

★現在では当たり前となったスタジアム公演の先駆けとなった。また警察官の動員数も2000人以上を記録し、これも前代未聞の数字となった。

★1965年8月18日のアトランタ公演。アトランタ市はこの日を「ビートルズ・デイ」と名づけ、スタジアム行きのバスは「ビートル・バス」と名づけられ、運転手はマッシュルーム・カットのかつらをかぶっていた。

★8月19日ヒューストン公演。ファンが到着した飛行機に突進すると危険ということで、空港正面から最も離れた場所に着陸場所を変更した。何時間も待ってくれたファンに失礼とポールは抗議したものの、実際にまだプロペラが回っている飛行機にファンが押し寄せて、間一髪という危険な状態になった。

★空港で興奮しヒステリー状態となったファンが雑誌や靴などを投げてきたといい、リンゴは「恐怖を感じた」と語っている。

★昼の部では興奮した観客がエスカレートして、靴などが飛び交い」「A Hard Day's Night」のあとにコンサートが一時中断された。

★1965年8月29・30日、ロサンゼルス公演。会場のハリウッド・ボウルはステージの前がプールになっており、ジョンはプールに飛び込むまねをしていた。実際にビートルズⅡ近づこうと飛び込んでしまったファンもいた。

★1965年8月31日、サンフランシスコ公演。前年に続いての公演。興奮したファンがステージに大勢押し寄せ、ドラム台にまで登ったり大勢が気を失って倒れたりして大騒動となり、全米でそのニュースが流れた。

★ホテル周辺にファンが大挙して押しかけて混乱が予想されたため、空港までトラックの荷台に隠れて移動した。

 【日本】

★2003年3月31日に世界同時リリースされたDVD-BOXは、4月14日付けのオリコン・チャートで1位を獲得したが、これがなんと洋楽部門史上初の1位獲得の快挙となった。

【スウェーデン】

★1963年10月のストックホルム公演では、熱狂したファンにジョージがステージから引きずりおろされそうになった。

【オーストラリア】

★1964年6月、初のオーストラリア公演でアデレイドの宿泊先となったホテルの周りには、5万人の群集が詰め掛けた。

 【インドネシア】

★1964年9月4日、政府がビートルズのヘア・スタイルを禁止する。

★1965年6月29日、ジャカルタでミュージシャンのひとりがビートルズの曲を演奏したとして逮捕される。

【解散後の出来事】

★音楽や映像ソフトの売り上げランキングを集計して発表するアメリカのサービス「ニールセン・サウンド・スキャン」調べで、2009年の全米における売り上げはテイラー・スウィフト、マイケル・ジャクソンについで3位を記録した。アルバムの売り上げ枚数は合計で300万枚以上となり、解散後40年近く経過しているミュージシャンの記録としては驚異的である。

★1997年5月17日、アメリカのケーブルテレビ局「VH-1」で特番「マッカートニーズ・タウン・ホール・ミーティング」が放送された。ロンドンのビショップスゲイト・メモリアル・ホールから生中継され、アコギによるポールのミニ・ライブや生放送でファンの質問に答えた。質問は客席のみならずインターネットで全世界から受け付けた結果、300万通もの質問が寄せられた。これは「一度に最も多くの人が参加したチャット・ミーティング・イベント」としてギネスの世界記録に認定された。

★1997年、イギリスで103年の歴史を持つ由緒あるクラシック・コンサート「プロムナード・コンサート」で、史上初めてクラシック曲以外の曲としてビートルズの曲が演奏された。毎年7月中旬から8週間にわたってBBCが主催する由緒あるコンサート。ニコラス・ケニヨン(BBCの担当ディレクター)、、、「この30年というもの、ビートルズの曲を演奏することを求められてきた。そして今ビートルズは20世紀を代表する作曲家としての地位を確立した。レノン・マッカートニーはガーシュインにも匹敵する作曲家だ。」

★1997年2月、ビルボード誌が発表した「1996年に最も売れたイギリスのアーチスト」のアルバム部門で、オアシスなどを抑えて堂々の1位になった。

★2000年に「ニューヨークタイムズ」紙が、1990年代に売り上げられたCDの売り上げ記録を発表した。並みいる現役ミュージシャンを抑えてビートルズは約3000万枚以上を売り上げて第5位となった。

【非常識を常識にした】

★ファースト・アルバム「Please Please Me」のレコーディングが終わって間もなくポールから提案があった。それまでの業界におけるアルバムのあり方は「ヒット曲が生まれると、そのシングルのAB両面の曲に加えて、急遽アルバムを埋めるその他の曲をレコーディングして、アルバムの体裁をとる。そしてなるべく早くヒットの余韻があるうちにリリースする。アルバム・タイトルはたいていがヒット曲と同名。」にポールは待ったをかけた。ヒット曲2曲程度に寄せ集めの新録でアルバムを作らない。ステージ同様にテーマを持たせ、収録曲は新曲のみ、と主張し、1963年春にスタッフとミーティングを重ね、見直しが図られた。これは画期的なことで、スタジオ内における絶対的な権限を持っていた(選曲、アレンジ、曲順、ジャケット写真等)プロデューサーの意に反することは出来なかったが、ビートルズは業界の常識の正反対の方法を押し通した。これは世界中のアーティスト、ミュージシャンに大きな影響を与え、アルバム制作における常識に大変革をもたらした。

★ビートルズ以前のポップ、ロック・スターは年間で10カ月以上ツアーや映画撮影を行ない、残りの2カ月程度でレコーディングを行なう「コンサート主体」の活動が常識だった。ビートルズはより良い革新的な作品を生み出すことに主眼を置いていたので、当時の他のアーティスト以上にスタジオを使用する時間が多かった。ツアー中止後はますますスタジオにこもる時間が増え、納得がいくまでレコーディングを行なった。こういうやり方はビートルズ以降業界に浸透し、期限までに作品を間に合わせるのではなく、作品が出来上がるまでレコード会社が待つという事例が増えた。

★ジョン、、、「ジャケットが単なる宣伝写真みたいなんじゃダメなんだ。」ジャケットもバンドの重要な表現の場であると考えていたビートルズは、ジャケット制作にも大きく関わるようになっていた。それまでのアルバム・ジャケットは、にっこり笑ったピンナップを拡大したような似通った宣伝写真のようなものがほとんどであった。売上等に関して実績の無かったデビュー・アルバムは仕方なかったが、セカンドの「With The Beatles」で早くも当時では非常識とされたモノクロ写真をゴリ押しで採用させ、「Rubber Soul」では画面のゆがんだ写真を採用。「Sgt.Pepper~」に至っては製作費が平均の数十倍にもかさみ、さらには切り抜きのオマケや折込ポスターも付属させるという凝りよう。これらも、この後に続くミュージシャンたちに影響を与えている。

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