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【ギリシャの島での共同生活構想】

★1967年初頭、ジョンのアイデアで4人とその家族で孤島に住んでスタジオも建てる構想を提案。共同生活をしレコーディングなどの活動もそこで行うというもの。

★メンバーは頂点に達しようとしていた創作活動の妨げになるものが、メディアなどの喧騒状態にもあると考え、静かな島などに住みたいとは思っていたが、ジョンのアイデアがもろ手を挙げて賛同されたわけではなく、ポールなどは「ジョンのドラッグの影響だった。」と後に語っている。

★ジョン、、、「俺たちはみんなでそこに暮らすんだ、一生ね。イギリスにはちょっと帰るくらい。俺たちだけで島に暮らすなんて最高じゃないか。小さな家を自分たちで建てて、そこでコミューンみたいな生活をするんだ。」

★実際にジョンはアリステア・テイラーに島の下見を依頼。豊かな自然やきれいな水があることなどの条件に加え、「ロンドンから飛行機で2時間以内」というビジネス上の重要な要件も付け加えられた。

★アリステア・テイラーのコメント、、、「私たちは1週間かけて、最終的に3つの島に絞った。そのことを報告すると、ビートルズは「よし、そこに行ってみよう」と即答したんだ。」

★まずはジョンが、アイルランドにある「ドーニッシュ島」を購入した。ジョン、、、「そこに家を建てて、誰も来ない穏やかな時間を過ごすんだ。シン(シンシア)とオレの隠れ家だよ。」

★アリステア・テイラーが最終的に候補に挙げた島は「レスロ」という4つのビーチを持ったのんびりした島で、メンバーひとりひとりの小島が4っつ付属していた。

★1967年7月20日、リンゴやパティ、ニール・アスピノールたち他、2日後にはポール、ジェーン、シンシア他がアテネに到着。ブライアン・エプスタインはこの計画には乗り気ではなく、島の下見には参加していない。

★ブライアン・エプスタイン、、、「ボーイズは島を買いにギリシャに行ってしまった。それはのぼせ上ったアイデアだが、彼らはもう子供じゃないし、それぞれが好きな道を歩ませる他はない。」

★最終的には購入しなかった。当時のイギリスでは厳しい通貨制限のために多くのお金を海外で使うことが出来ず、ビートルズ側は輸出に貢献したことを材料に当局と交渉を行うが、長い時間が掛ることが分かり次第に興味が失せてしまった。

★ポール、、、「そこを後にしたときは、もう戻る必要はないと思ったよ。ギリシャの島を買わない最良の方法は、その島に行ってみることだね。」

★リンゴ、、、「結局何も残らなかった。ボクらは島を買わずに家に帰った。すごいアイデアで休日を楽しく過ごすことは出来たんだけど、決して実行できないんだ。レコードを作る方が安全だね。ボクらは外に出るとバカなことをしてしまうんだ。」

【インドでの瞑想修行】

★期間、、、1968年2月15日~4月12日

★場所、、、インド、リシケシュ

★参加者、、、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴ、シンシア、ジェーン・アッシャー、パティ、モーリーン、ミア・ファロー、プルーデンス・ファロー、ドノヴァン、マイク・ラヴ他

★前年にイギリスのバンゴアで体験したマハリシの瞑想体験を非常に有意義なものと感じ、ジョージの発案でマハリシのおひざ元のインドで直接の瞑想修行を行なうことになった。

★入会金は大学生が35ドルだったのに対し、社会人は各人の「週給」に相当する金額であり、ジョンはその公平なやり方に感心していた。

★瞑想修行から最初に脱落したのはリンゴ夫妻。辛い食事が苦手なリンゴは連日インド料理が出てくるのだろうと予想して、大量の豆の缶詰や卵などを持参したが飽きてしまい、かといってインド料理も口に合わなかった。加えて大の虫嫌いのモーリーンは大量の蠅に我慢が出来ず、予定していた期間の半分も持たずに3月1日に帰国した。

★仕事の虫ポールはアルバムのことが気になって限界を迎えたのか、3月26日に帰国した。

★ジョンとジョージは4月12日まで滞在した。本来は帰国はまだ先であったが、マハリシが瞑想に参加していた女優のミア・ファローに性的関係を迫ったと騒ぎになり、特にジョンは相当激怒していたという。

★後になって、アップルのエレクトロニクス部門の責任者であったマジック・アレックスが流したデマだったことがわかり、ジョージは最後までマハリシをフォローし、ポールとリンゴもジョージ同様にマハリシの教えを支持し、ポールは今でも自宅の瞑想ルームで瞑想を行なっている。

★インド滞在中の様子を映画化する予定があったようで、この瞑想体験に参加していたカナダ人の映像作家のポール・サルツマンが写真と動画の撮影を任された。

★ポール・サルツマン、、、「スピリチュア・センターに着くと扉はすべて閉まっていた。ビートルズが中にいたからなんだけど、中に入れてくれるまで8日間もゲートの側でテントを張って寝泊まりしていたよ。」

★ポール・サルツマン、、、「本当に信じられないことだけど、彼らはボクを仲間に入れてくれた。彼らは地に足の着いたしっかりした人たちで、リヴァプールの人独特のユーモアがあった。」

★ポール、、、「インドに行っても最初の頃はアルバムのことを頭から切り離そうとするだけで大変だった。」

★超越瞑想を学ぶ上でギターなどの楽器は必要ないと考えていたジョージ。ジョンとポールがアコギを持参していたことについて仕方がないと思っていたが、あまりにも作曲に没頭しすぎる姿を見て激怒したという。

【ビートルズ ソ連公演】

★ブライアン・エプスタインが亡くなる直前、ソビエト文化局と会談をするために、NEMSのヴィク・ルイスをモスクワに派遣する計画を立てていた。

★ビートルズを含むNEMSのアーティストがソ連を訪れて、コンサートもしくはテレビ出演での演奏する許可が得られるかを検討する予定だったそうだ。

【幻のアルバム?「Hot As Sun」】

★アルバム「Get Back」レコーディングが終了した後、1969年2月からレコーディングに取り掛かったアルバム「Hot As Sun」。マスターテープが何者かによって盗まれて、EMIとアップル・レコードが窃盗犯に巨額の身代金を支払い、海外から無事テープを取り返したものの、帰国時の空港のX線検査でテープの内容がすべて消去されて、アルバム自体が幻となった。

★エレクトラ・レコードの小冊子の記事を、ローリング・ストーン誌が1969年9月号でスクープしたことで大きなニュースになった。

★実はこれらの話はまったくのデマ。まず、ビートルズのメンバー全員が否定しており、EMIスタジオにもレコーディングの記録が残っていない。また、レコーディングが始まったとされる2月にはジョージが扁桃腺手術のために入院したり、リンゴは映画「マジック・クリスチャン」撮影に出かけ、下旬には「Abbey Road」のレコーディングが始まっており、物理的にも「Hot As Sun」のレコーディングを行なうことは不可能である。

【ゲームソフト「ザ・ビートルズ・ロック・バンド」】

★リンゴは一度だけこのゲームをやったことがあるが、ゲーム画面がよく理解できずにほとんどプレイすることが出来なかったという。

★リンゴ、、、「無理だよ。ボクは下に下がっていく線を見ながら、同時にプレイすることなんて出来ないよ。」

【1960年前後の録音テープ】

★1960年前後に当時のビートルズの演奏を収録したテープがある。録音された場所と日時は定かではなく、ジョンが通っていたリヴァプール・アート・カレッジ、スチュワート・サトクリフのアパートなどと候補はあるもののハッキリしていない。ポールが自宅のバスルームで録音したことを記憶していて、テープに入っているいくつかの曲が反響の効いたバスルームで演奏したと思われるリバーブが掛かっているということである。録音した日はポールが通っていたリヴァプール・インスティチュート・ハイスクールの休校日で、1960年4月とのことであるが、あくまでポール個人の記憶で他のメンバーによる証言は無い。

★曲によってはパーカッション的な音も入っており、ポールによれば当時ドラマー不在のビートルズであったために、弟のマイクがかり出されたということらしい。

★収録曲は後に「Anthology 1」で公開された「Hallelujah I Love Her So」「You'll Be Mine」「Cayenne」の他オリジナル曲では「I'll Follow The Sun」「One After 909」「When I'm Sixty-Four」「Ask Me Why」「Hello Little Girl」があるが、一部を除いてまとまりのない低いクオリティの演奏となっている。

★他にも知られていなかったオリジナル曲が収録されている。レノン=マッカートニーのインスト曲「Winston's Walk」、他には「Some Day」「You Must Write Every Day」「Well Darling」があるが何れも駄作と言えるような出来である。

★カバー曲はカール・パーキンスの「Matchbox」、デュアン・エディの「Moovin' And Groovin'」「Ramrod」エルヴィス・プレスリーの「I'll Always Be In Love With You 」「That's When Your Heartaches Bigin」、レス・ポール&

メアリー・フォードの「The World Is Waiting For The Sunrise 」

【その他】

★1969年に170万ドル(当時のレートで約6億1千万円)のギャラで12カ所のスタジアムを回る全米ツアーのオファーがあった。また1970年8月のオランダで開催されるフェスティバルに100万ドル(当時のレートで3億6千万円)のギャラでオファーがあった。

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