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【グレープフルーツ】

★アップル・パブリッシング契約第1号で、契約日は1967年12月11日。

★NEMS所属グループだった「トニー・リバース・アンド・ザ・キャスタウェイズ」が、1967年8月のブライアン・エプスタイン死去の混乱に乗じる形でギター担当のジョン・ペリーがジョージ・アレクサンダーとコンビを組み、ピート・スウェットナム、ジェフ・スウェットナムと4人組グループ「グレープフルーツ」を結成。

★グループ名はアップル・パブリッシング部長のテリー・ドランから打診を受けたジョンが、ヨーコの著書「グレープフルーツ」から取り命名した。

★ファースト・アルバム収録の「ララバイ」(作詞作曲、ジョージ・アレクサンダー)のデモ・レコーディング・セッションではジョンがドラムを担当している。アセテート盤がカッティングされたが、レーベルにはジョンの直筆で自分がドラムを叩いたことが記されている。ジョンの公式レコーディングでのドラム・プレイ音源は、他に映画「レット・イット・ビー」の中でのものとあわせて二つしか存在しない。

★初の公式レコーディングは1967年11月24日にIBCスタジオで行われ、ジョン、ポール、マル・エヴァンズも立ち会って、アレンジなどの助言をしている。

★ファースト・アルバム収録の「イエス」はポールがレコーディングのアドバイスをし、パーカッションで演奏にも参加している。

★ファースト・アルバム収録の「エレベーター」のプロモーション・フィルムはポールの監督の下、1968年5月28日に制作されている。

★1969年11月アップル・パブリッシングを離脱。同時にグループとしての活動も停止。様々なゴタゴタがあったおかげで、アップルからレコードがリリースされることはなかった。

★ジョン・ペリーはビートルズのシングル「ヘイ・ジュード」のバック・コーラスにも参加している。2分58秒あたりで聞こえる「Fucking hell」または「Go to hell」という禁止用語は、一般にはピアノをミスったポールの声だということになっているが、ジョン・ペリーの声だとする説もある。

【トラッシュ】

★スコットランド出身のバンド。

★アップルからデビューした当時は「White Trash(ホワイト・トラッシュ)」というバンド名であったが、アメリカの白人の低所得者に対する蔑称であるため、またそれが実際に問題になったことから、2枚目のシングルからは「Trash」になった。

★アップルからは2枚のシングルをリリースしたが、2枚目の「Golden Slumbers~Carry That Weight」は本家ビートルズ版である「Abbey Road」発売の1週間前にリリースされ、全英チャート27位まで上昇した。なかなか秀逸なカバーである。

【メリー・ホプキン】

★イギリス・ウェールズ出身。

★1968年5月5日放送の新人歌手やタレント発掘テレビ番組「オポチュニティ・ノックス」に出演したメリーを観たツイッギーがポールに電話連絡してことがキッカケ。

★ツイッギーから紹介を受けたポールはリンダと、リンゴ夫妻と共にステージを観た。売れると直感したポールはアップル・レコードとの契約とポール自らのプロデュースを申し出た。

★同時期にジョージからアコースティック・ギターをプレゼントされている。

★デビュー曲は1968年8月30日リリース(英国での発売日。日本は同年12月5日)の「悲しき天使(Those Were  The Days)」で、「Hey Jude」と同時にアップル・レコード最初のシングル盤である。

★「悲しき天使」のストリングス・スコアを書いたのはリチャード・ヒューソンで、彼は「The Long And Winding Road」のオーケストラ・アレンジの担当者である。

★アップル・レコード第一弾として強力なプロモーション活動を展開し、英語盤以外にもフランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語の各国語バージョンもリリースされ、それぞれチャート1位を獲得。日本でもオリコン・チャートで1位となっている。

★メリー・ホプキン、、、「Those Were The Daysは素晴らしい曲で、それを歌い機会をくれたポールにこれからも私は感謝し続けるでしょう。」

★アップルからのデビューアルバム「Post Card」はポールのプロデュースのもと、1969年2月21日にリリースされた。ジョージ・マーティン、ドノバン、ハリー・ニルソンが楽曲を提供し、ジャケット写真はリンダ・マッカートニーが担当した。全英チャート3位、全米チャートでは28位を記録している。

★2枚目のシングルはポール作の「Good Bye」。ポールはプロデュースのほかに演奏にも参加。イントロのギター、ベース、ドラムスも担当。全米13位、全英2位を記録した。

★「Good Bye」はメリー・ホプキンの志向である「ブリティッシュ・フォーク」から外れていることに不満を持ち、続く3枚目のシングル候補としてポールが用意した曲「Que Sera,Sera」があまりにもポップ性が強いということでレコーディングはしたものの、リリースを拒否したために当時はフランスだけで発売された。

★ポールとの関係は悪化して、ポールはプロデュースから撤退。その後は後に夫となるトニー・ビスコンティをプロデューサーに迎えて作品を発表している。

★ポール、、、「フォークソングをやりたいのなら勝手にやればいい。ボクには興味がないんだ。」

★メリー、、、「ポールの目的は私を商業的な世界へ誘導することでしが、私はそれにNOと言いました。彼は私に「Que Sera Sera」を歌わせたがりました。大好きな曲だったんですが、私はそれをレコーディングしたくありませんでした。リンゴのドラムで歌ったんですが、後に私はリリースしたくないと言いました。彼らは曲の水準を上げると言いましたが、実際にはそうはなりませんでした。」

★メリー、、、「私は休むことなく働いて、それがショー・ビズというものでした。都会では若い人は大人になり切れず未成熟でした。みんながドラッグやパーティに明け暮れていましたが、私はそういうものに一切関わりたくはありませんでした。彼らが「日曜日に最高のトリップをしてきたよ」と言えば、私は「どこへ旅行に行ってきたの」とたずねるくらいうぶでした。彼らはおしゃぶりをくわえた子供のようで、なぜ短絡的にドラッグを使用しているのか理解できませんでした。

★1970年の大阪万国博覧会のイベントで来日。会場内のエキスポ・ホールでコンサートを行なった。料金体系はBOX席¥1,800、A席¥1,400、B席¥1,000、C席¥600。「In My Life」「Yesterday」などのビートルズ・ナンバーも披露された。

★1971年、12月1日にアメリカで、12月3日にイギリスでシングル「Water,Paper,& Clay / Jeffason(米国盤はStreets Of London)」がリリースされる。彼女のアップルにおける最後のシングル盤となった。

★1971年12月5日、レコード・プロデューサーのトニー・ビスコンティと結婚したことを明らかにする。

★1972年3月、アップルとの契約が切れる。マネージャーのジョー・ラスティーグ、、、「大手3社からオファーを受けているが、まだどことも契約は結んでいない。」

【ホット・チョコレート・バンド】

★1968年にロンドンで結成されたソウル・バンド。

★アップルとのかかわりはジョンがきっかけ。「Give Peace A Chance」のレゲエ・バージョンのレコーディングの許可を取るためにアップルに打診。彼らのバージョンをジョンはとても気に入りすぐにOKが出たと言われている。

★アップルと契約後、1969年10月10日に「Give Peace A Chance」でデビューするもヒットはしなかった。

★アップル崩壊後はRAKレーベルに移籍し、70年代、とりわけ70年代後半のディスコ・ブームに乗り、全英1位を獲得した1977年の「So You Win Again」をはじめ、多くのヒット曲を世に送り出している。

【バッド・フィンガー】

★イギリス・ウェールズのスウォンジで結成されたロック・バンド。前身バンドの「ザ・パンサーズ」は1961年に結成されており、後にアイビーズに改名している。

★マル・エバンスに見いだされ、1968年11月にアップル・レコードから「Maybe Tomorrow」でデビューしたがヒットしなかった。

★リンゴが出演する映画のテーマ・ソングで再デビューすることになりバンド名を変更することになった。ジョンやポールが出したアイデアには「プリックス」「ザ・グラス・オニオン」「キャグニーズ」「ホーム」などがあったが、ニール・アスピノールの案「バッド・フィンガー」が採用された。「With A Little Help From My Friends」の仮タイトルだった「バッド・フィンガー・ブギ」が由来。

★再デビュー曲はポール作の「Come And Get It」。ひとり多重録音で作成したデモ・テープを渡し同じように演奏することを要請した。これに対しバンド側はアレンジを加えたいと申し出るが、ポールは「デモのアレンジが正しい。ヒットは間違いないから、このままやってくれ。」と変更を断った。プロデュースもポールが担当している。

★1969年12月にイギリスで、1970年1月にアメリカでリリースされた「Come And Get It」は全英4位、全米7位を記録するヒットとなった。

★続くシングル「No Matter What」全英5位、全米8位。「Day After Day」は全英10位、全米4位と着実にヒット曲を送り出し、セカンド・アルバム「No Dise」収録曲の「Without You」は後にハリー・ニルソンがカバーして全米1位と大ヒット。また1994年にはマライア・キャリーがカバーして、こちらも全英1位、全米3位と大ヒットし、ポールは「いつの時代にも通用するキラー・ソング」と賛辞を送っている。

★1971年のバングラデシュ難民救済コンサートにもサポートバンドとして出演(ボブ・ディランが会場にやって来るまでは、メインの出演も予定されていた)。またジョン、ジョージ、リンゴのアルバムにも参加している。

★アップルの経営不振と事業の縮小に伴い、4枚のアルバムを残してアップルを去ることになったのだが、マネージメントを託したアメリカ人ビジネスマンのスタン・ポリーに騙されて、ワーナー・ブラザーズと契約したものの、バンド・メンバーの金銭的収入については非常に不利な契約内容となっており、他にもメンバー間のトラブルなど諸問題を抱え、1975年4月ピート・ハムは自ら命を断った。ポールとジョージはかなりのショックを受けたと言われている。

★ピートの死後数年たってバッド・フィンガーは再結成されたが、メンバーの出入りが多くトム・エバンズとジョーイ・モーランドは何とそれぞれのバッド・フィンガーを結成することに。そして楽曲の権利をめぐりトムとジョーイが対立して訴訟する事態に。この騒動に疲れたトムは1983年11月に命を断った。

★ポール、、、「ピート・ハムは優秀な作曲家だった。でも彼は自分で命を断ってしまった。愛すべき男だった。今でも彼の姿が目に浮かぶよ。本当に惜しい男を亡くした。」

★1971年12月13日、アルバム「Straight Up」アメリカでリリース。

【ビリー・プレストン】

交友録を参照ください。

【ブラック・ダイク・ミルズ・バンド】

★イギリスのブラス・バンドの中では非常に長い歴史を持つバンドで、全英選手権、ヨーロッパ選手権などで数多くの優勝記録を持つ名門バンド。

★1968年8月30日にアップル・レコードから初めてリリースされた4枚のシングル「通称 Our First Four」の1枚が、シングル「Thingumybob」であり、ヨークシャー・テレビの同名コメディ番組のテーマソングであり、これはレノン・マッカートニー作品である。B面は「Yellow Submarine」。プロデュースもポールが担当している。

★1979年にリリースされたウィングスのアルバム「Back To The Egg」のレコーディングに参加している。

【ジャッキー・ロマックス】

★イギリス・チェシャー州出身。1944年生まれ、2013年没。

★アンダー・テイカーズのベース&ヴォーカル、ザ・ロマックス・アライアンスを経てソロとしてアップルからデビューした。

★ザ・ロマックス・アライアンスはブライアン・エプスタインがマネージメントを行なっていたものの、ブライアンの死去により行き場を失っていた状態であった。そのジャッキーをアップル・アーティストとして救済したのはジョージだった。

★アップルからのデビュー・アルバム「Is This What You Want?」はジョージのプロデュースで1969年3月21日にリリースされた。ジョージは未発表曲「Sour Milk Sea」を提供。レコーディングにはポール、リンゴ、エリック・クラプトン、ニッキー・ホプキンス、クラウス・フォアマンらが参加する豪華な内容となった。

★アップルからリリースした最後のシングルはジョージがプロデュースした「How The Web Was Woman」。ちなみにイギリス盤B面「Thumbing A Ride」はポールのプロデュース。

【ドリス・トロイ】

★1937年1月6日、アメリカ、ニューヨークはブロンクス生まれ。

★アポロ・シアターで案内係として働いていた時に、ジェームス・ブラウンに見いだされ業界入り。アトランティック・レコードでバック・アップ・ヴォーカリストとして活動する。

★作曲も手掛けており、1963年には「JUst One Look」がビルボードのチャートで全米10位を記録した。

★ビリー・プレストンがアルバム「That's The Way God Planned It」をジョージと共同でプロデュースした際に、バック・ヴォーカルとしてドリスを呼んでおり、それがきっかけでジョージと知り合う。

★ドリスは英国に移住してアップル・レコードと契約。1969年秋から翌年春にかけてデビュー・アルバムのレコーディングを行なう。

★1970年に発売されたアップルからのデビュー・アルバムは、ちょうどビートルズの解散やアップルの破綻と時期が重なって、目立ったプロモーションも行われなかったことなどから、チャートは振るわなかった。

★デビュー・アルバム収録の「Ain't That Cute」はジョージとの共作である。

【ジェイムス・テイラー】

★1948年3月12日生まれ。アメリカ出身。

★アップルのA&R部門のチーフだったピーター・アッシャーが送られてきたデモ・テープをポールに聴かせ、気に入ったポールの勧めでアップルと契約となった。

★デモ・テープに入っていた曲は「Something In The Way She Moves」。これがジョージにインスピレーションを与え、名曲「Something」が誕生する。

★元はピーター&ゴードンのバックバンド「フライング・マシーン」のメンバーであった。

★アップルからのデビュー・アルバムは「James Taylor」。プロデューサーはピーター・アッシャー。収録曲「Carolina In My Mind」でポールがベースを担当し、ジョージがコーラスで参加している。

★過度のヘロイン中毒に加え交通事故のゴタゴタもありアップルから契約を解除され、その後はピーター・アッシャーとともにアメリカに帰国。ワーナーと契約する。

★ワーナー移籍後初のシングル「Fire And Rain」が全米3位の大ヒットを記録。その後もいくつかのヒット曲をリリースして現在も現役である。

★ポールと親交が深く、イベントなどでポールと多く共演している。

★1980年12月8日、ダコタハウスに住んでいたジェームズは、ジョンが撃たれた時の銃声を聞いている。

【ブルート・フォース】

★1940年9月29日、アメリカ、ニュージャージー州ジャージー・シティ生まれ。

★トークンズというバンドでギターとキーボードを演奏しており、ソングライターとしてはデル・シャノン、ザ・シフォンズなどに楽曲を提供している。

★1969年にシングル発売された「The King Of Fuh」という曲がジョンとジョージに支持され、アップルで再リリース。同年、アルバム「Extemporaneous」をリリースする。

【ラダ・クリシュナ・テンプル】

★ロンドンで布教活動を行なっていた国際クリシュナ意識協会の本部「ラダ・クリシュナ・テンプル(寺院)」の信者と1969年7月にEMIスタジオでレコーディング。ジョージがプロデュースし演奏にも参加したシングル「Hare krishna Mantra」は同年8月にリリースされ全英チャート12位を記録した。

★曲がヒットし、TV番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」にも2度出演。ハンブル・パイのロンドン公演の前座を務めるなど一躍有名になった。

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